寛政七年には又孝子與三左衞門の旌賞せらるゝありき。與三左衞門は能美郡三坂の人にして、幼より孝を以て知られしが、年十七の時父を喪ひ、家貧しくして負債に苦しめり。與三左衞門乃ち田宅を售りて之を償ひ、又自ら同邑總左衞門の家に奴となり、餘暇を以て力作して母を養へり。是の如きもの凡そ一紀にして稍餘財あるに至りしかば、與三左衞門は嘗て父が總左衞門に鬻ぎし田を購はんことを請ひしに、總左衞門その志行に感じ價を收めずして之を與へたりき。母隣人を納れて與三左衞門の婦とせしに、婦も亦孝順なりしが、一子を擧げたる後幾くもなくして死せり。是に於いて故舊皆繼妻を容れしめんとせしに、與三左衞門曰く、その人を識らずして娶り、若し母の悦ばざることあらば、則ち離別せざるを得ず。これ獨我が家の憂たるのみならず、亦人の子を害ふなりと。遂に娶らずして益孝養に力め、母の病みし時には、己の腹を以て母の足を温むるに至れり。既にして母の歿するや、與三左衞門は晝夜慟哭し、水漿口に入らざるの數日、哀毀の状轉た人を動かすものありき。 孝子半兵衞は小松の人、母に事へて至孝なりしかば、一家皆これに倣ひ淳朴風を爲せり。半兵衞漁者の魚介を買ふときは、その價の外別に若干錢を與ふるを常として曰く、彼令負擔して遠く至る、我その勞に報いんと欲するなりと。その慈惠概ねこの類なりき。