孝女そよは小松の人佐兵衞の子なり。父老いて貧しかりしかば、そよは織絍して賃を受け、以て父と繼母とに奉ずるを悦べり。是を以て父母は、自らその貧窶なるを知らざるものゝ如くなりしといふ。 貞婦ちやうは能美郡吉谷村清八の妻にして、同村八左衞門の女なり。年十九にして清八に嫁し二子を擧げしが、二十五歳にして寡居せり。清八の兄弟等相議して、將に後夫を迎へしめんとせしに、ちやうは、苟も伯叔父にして遺孤を導き、以て亡夫の後を興さしめば我が願足るといひて之を固辭せしかば、宗族皆ちやうの志に感じ遂に之に從へり。ちやう乃ち夫の忌日には生に事ふるが如くし、終歳營々として家政を理め、以て二兒を鞠育せしに、二兒も亦孝友を以て稱せられき。郷黨爲に語りて、この母にあらざればこの子を生むこと能はずといへり。 又孫六といふ者ありて、河北郡常徳村なる七兵衞の次子なりしが、資性敦篤にして幼より父母に孝なりき。同郡材木村の人伊兵衞、年老いて子久四郎を擧げたるも、幼冲にして家を繼ぐ能はざるを慮り、孫六の令聞あるを聞き、迎へて贅壻とせり。既にして久四郎漸く長ぜしかば、伊兵衞は久四郎を以て後となし、田産を割きて孫六を別居せしめんと計りしに、孫六は欣然として命を奉じ、寛政六年伊兵衞の歿するに及び、久四郎を立てゝ家を襲がしめき。然るに翌七年夏旱して秋熟せず、久四郎はその家を售りて貢租を償はざるべからざるに至りしかば、孫六は宗家の亡びんとするを嘆き、己の屋を捐てゝ急を救ひ、久四郎と居を共にして義母を敬養せり。事藩吏の聞く所となり、松材二十幹を賜ひて賞せられき。以上與三左衞門・半兵衞・そよ・ちやう・孫六の賞せられしは、皆寛政七年に在り。 孝子又右衞門は寛政八年を以て旌せらる、又右衞門は金澤の人にして家貧しく、傭丁となりて衣食せり。幼より至孝なりしが、父の歿したる後專ら母に事へて敬愛を盡くしたりき。又右衞門家に歸るときは、未だ足を濯ふに及ばずして母の安を問ひ、母の外に出づるときは必ず左右に隨へり。親族或はその勞を察して婦を納るゝを勸むるものあれば、則ち辭して曰く、母猶強健にして能く家事を治むるは吾が幸福とする所なるが故に、未だ娶るを要せざるなりと。その實は婦の奉承謹まず旨甘給せざるあらんを慮りしなり。故を以て年四十四にして尚室なかりき。事聞し、錢若干を賜はれり。