又しふ・ひろの姊妹あり。金澤の處士岸丈右衞門の女にして、家甚だ貧しかりしが、父と繼母とに事へ孝勤を以て稱せられき。人或は婚を求むるものある時は、侍養人なきを以て之を辭し、しふは四十歳ひろは三十五歳に及べるも、二人力を戮せて日夜紡績し以て衣食を給し、父母の欲する所は力を盡くして營辨せり。藩乃ち賜ふに錢若干を以てしたりき。しふ・ひろの旌表せられしは、又右衞門と同年に在り。 寛政九年忠僕久七旌せらる。久七幼より孝行を以て聞えしが、年二十五にして金澤の醫須貝玄徹の家に僕となれり。然るに玄徹多病にして常に蓐に臥せしかば、家道日に衰へ、病客の治を求むるものあるも藥石を備ふるの資を有せざるに至れり。久七之を憂へ、百方力を盡くして玄徹の業を失はざらしめ、暇あるときは隣里に傭作し、その得る所を悉く主家に奉じたりき。是の如きもの三十餘年に及びしかば、是の歳春全二兩を賜ひ、六月更に加賞して銀五枚を賜はれり。 孝子小助は寛政十年を以て旌せられき。小助は金澤六斗林の賣菜傭小兵衞の子にして、幼より白銀師源七に就きて業を習へり。然るに去年九月小兵衞事に坐して獄に繋がれしかば、小助は日夜悲痛して寢食を癈し、遂に吏に請ひ父に代りて獄に下り、今年五月釋さるゝを得たり。是に於いて復源七に就き、課功の餘暇賃作して以て父母朝夕の資を給し、敬愛備に至りしかば、藩は錢若干を與へて之を賞し、次いで十二年には一萬錢を、享和三年には又米十苞を賜ひたりき。