同時に妙順といふ者あり。金澤の人小兵衞の姊なりしが、三歳にして母を喪ひ、叔母に養はれたるを以て、遂に之を呼びて母といへり。小兵衞幼より羸弱にして勞役に堪へざりしかば、妙順は乃ち笠を賃作し、以て叔母と弟とを養へり。寛政二年叔母齡九十に達し、例によりて養老俸一人口を賜はりしが、その時妙順は已に六十九歳なりしを以て、老衰して賃作すること能はず。乃ち薙髮して尼となり、食を城下に乞へり。人之に物を與ふれば輙ち曰く、之を老母に饋らば大に悦ばんと。人妙順が言を飾るにあらざるかを疑ひ、窃かにその家を窺へば、妙順叔母の膝下に跪き、乞ひ得たる所のものを羅列して歡を取れり。寛政十年藩は妙順に錢二千を與へて之を賞せしが、明年妙順の死するに及び亦一萬錢を追賜せり。 孝子安右衞門は寛政十一年を以て旌せらる。安右衞門は金澤の人にして、幼より父母に孝なりき。父の殘するに及び、安右衞門兄と別居して生を營みしが、風雨寒暑を避けず日々母の安を問ひ、一物を得るあれば輙ち趨りて之を供せり。偶兄の家に在らざるときは、深更に至るまで談笑して母の歡を取るを常とす。安右衞門嘗て疾み、食はざること數日なりしが、母の來り訪ふを見るや、強ひて食を攝りて自ら快癒せるを示したりき。その心を用ふることの厚き概ねこの類なり。因りて藩は錢若干を賜ひ、明年亦銀若干を賞賜せり。 以上治脩の世に旌表せられたる孝義に就き、加賀・能登二國に屬するものゝみを擧ぐ。 治脩が風教作振の第二手段として擇びたるは學校の興造にして、事は寛政三年七月老儒新井白蛾を招聘したるに起れり。白蛾は名を祐登、字を謙吉と稱す。その父祐勝、もと加賀の人なりしが淺見繝齋に學び、後江戸に住せり。白蛾幼より聖經賢傳を研竅し、歳十九歳にしてその學遂に程朱に歸す。元文元年帷を神田紺屋町に下して子弟に教授せしが、常時荻生徂徠ありて一世に雄視し、功名を樹つるの餘地なかりしを以て、去りて京洛に住し、口を束脩に糊して祿を干めざりき。白蛾周易の玄旨を剖柝するに於いて殆ど獨特の妙あり、古周易經斷等の書數十部を著したりしかば、名聲大に顯れ、遂に治脩の爲に聘せられて祿三百石を食めり。治脩乃ち白蛾に命じて學校を興造せしめ、又彼に明倫堂の扁額を書せしめき。翌四年二月白蛾は學頭を命ぜられ、秩祿の外別に職俸五十石を賜はり、侯の侍讀を兼ね、遂に三月二日を以て開校の典を擧ぐ。時に白蛾老齡已に七十九歳に達して餘命甚だ長からず、この年五月十四日易簀せり。是を以て、彼自身に在りては藩の學政上裨補する所多からざりしといへども、治脩の目的とする一藩風教の根源たる學校はこゝにその基礎を置かれ、後治脩は屢之に臨みて學問の奬勵を怠らざりき。 七月十八日(寛政三年)、左之通於京都被仰付。 新井白蛾 三百石被下之、御儒者え被召出、寺社奉行支配ニ被仰付。但用意出來次第金澤え引越候樣被仰達。 右白蛾廿一日夕方參著。御貸宅不明(アカズノ)門向町家也。 九月朔日、出仕之面々一統、四時過御目見。畢而檜垣之御間に御著座、新井白蛾被召出候御禮被爲請。献上青銅。但白蛾裝束、野服・指貫・さしこ着用之儀一昨日窺有之、御聞屆有之。且今日は野服・指貫・石帶にて御禮申上候事。 右相濟、於御居間書院、白蝦え大學三綱領之所造御好にて講釋被仰付御聽聞。年寄中・御家老・若年寄中並御近習頭分以上・配膳役・御居間方新番以上、御儒者之内長谷川準左衞門・伊藤雅樂助え聽聞被仰付。將亦組外御近習有澤惣藏・田邊覺兵衞儀、今日白蛾方弟子入被仰付。附白蛾年齡七十八歳[實者八十二歳]、惣髮尉曲、眼・耳・氣力達者、齒・行歩は不自由。形容相應殊勝に相見得候。帶刀大小共長き物帶之。從者若黨壹人・鑓・挾箱・草履取、駕籠乘用今日五時登城、八時過下城。前記之準左衞門・雅樂助は白蛾講釋に付詰被仰付、依之聽聞も被仰付。前記裝束之内さしこと申は、袴の如き物にて平服に用候云々。 〔政鄰記〕 ○ 二月朔日(寛政四年) 學頭被仰付。依之御役料五十石被下之。新井白蛾 右今日於御席、御用番玄蕃助(津田)殿被仰渡。畢而玄蕃助殿誘引有之、御居間書院に於て御前迄召出、入情可相勤旨御意有之。 〔政鄰記〕 ○ 三月二日(寛政四年)、今朝五時御供揃に而、同刻過御出、兩學校(治脩)へ被爲入。 於學校御座之間、御床之上御飾左之通。 燈明臺蒸菓臺まんぢう 御酒角徳利菓子臺有平糖・落雁 聖像御掛物御酒角徳利鏡餠臺香爐臺 燈明臺菓子臺かち栗・枝柹 花瓶紅白桃魚鉢臺生鯛二尾 〔政鄰記〕