加賀藩に在りて仇討の行はれたるは、こゝにいへる赤尾本平を以てその嚆矢とすべし。域はいふ、是より先十一屋仇討として傳へらるゝ孝子三太の事あり。三太は石川郡曾谷村の農にして、その祖父及び父共に事によりて、馬廻組の士山田權左衞門の爲に害せられ、而して三太の兄一坊・二太は復讐を試みしも成らずして亦殺されき。是に於いて三太は金澤に出でゝ今井左太夫の馬丁となり、劍を齋藤金平に學び、元和元年七月十五日權左衞門が野田山に於ける藩祖の墳塋に詣でんとせし時、之をその途十一屋村に要して本望を達せりと。然れども前人の研究する所に據れば、慶長十七八年及び元和元年の侍帳を檢するに、共に山田權左衞門の名を見ず。今井左太夫は慶長十年の富山侍帳に載せて大小將衆に屬すといへども、齋藤金平に至りては異風組の士にして明和の頃に存せし人なり。さればこの復讐談は殆ど支離滅裂にして、後人の假作なること必せりと。今因みに之を記す。