赤尾本平のことありしより後二年、また忠義の士高田善藏を出せり。善藏諱は種褎、大小將組に班して五百石を食み、先侯重教の近習として金谷殿に勤仕し、慷慨磊落にして忠孝を以て自ら許せり。善藏の常に人に語りて、『武藝は士のせぬ者なり。士と申者は、正風躰に身だしなみごといたし候得ば、夫にて隨分頭分にも成申候。武藝は手抔痛候而者、仕舞などの障に成可申。』といへるもの、その時弊を憤ること深く、諷詆の凜烈たるものあるを見るべし。既にして安永九年二月八日善藏金谷殿に出仕せし時、定番頭並にして御用部屋兼帶の職に在り、祿八百石を食める中村萬右衞門齊(ヒトシ)の至るを待ち、之を一室に誘ひて腹側を刺せり。萬右衞門時に年四十九。その横死の難に罹れるを以て、法に照らして秩祿及び邸宅を沒收し、家財は之を遺妻に與へ、十一日死屍を野町大蓮寺に葬らしめき。善藏は竹田五郎左衞門忠順の家に拘せられしが、吏彼が萬右衞門を殪したる理由を問へども實を答へず、唯亂心に因りて致す所なりといへり。吏乃ち善藏に諭して、彼が亂心者として終ることの決して本意にあらざるべきを以てしたりしに、善藏は遂に番頭武田喜左衞門・坂井要人二人に對して所懷を縷陳したりき。蓋し萬右衞門は重教の左右に侍して、その能樂・放鷹等に對する嗜好を極端に増長せしめ、又侯の寵任に倚依して威權漸く上を凌ぎしに、人皆之を憎み大槻朝元に比して中槻と呼ぶ者すらあるに至りしかば、善藏その害の及ぶ所測るべからざるを思ひ、遂に命を絶つに至りしなりといふ。善藏の家を出でしとき、和歌一首を居室の襖に題して『思ひたつ死出の山路はやすけれどはゝその森の露ぞかなしき』といへるもの、豫め決意の牢乎たりしを知るべく、更にその母に與へたる遺書に於いて彼が心事を忖度すべし。藩乃ち同月十五日八半時を以て、死を竹田氏邸の庭上に賜はれり。