次いで六月十四日藩は封内の民をして、各その有する田園の數を録上せしめ、七月二十三日關貫秀を以て改作奉行に任ぜしを見れば、益今次の畫策が貫秀の献策に出でたることを知り得べし。而して流人となりたるものは、能登島に於ける收容所の成るを待ち、八月十一日十村十人を向田村に向かひて金澤を發せしめ、十八日九人を曲村に向かひて同じく發せしめ、各三日の後渡島收容せらる。その建物は梁行二間奧行九尺にして、前後に三尺の庇を附し、毎棟三人を入れ、流刑中壹人に付壹人扶持の外、鹽代・薪代銀二分二厘を給し、その郷里に於ける家財はこれを妻子に給し、持高は藩の縮高(シマリダカ)となして村方に保管を命ぜしが、翌文政三年六月二十八日流刑を赦免して各居村に歸らしめたる後、八月二日之を還附せり。先に牢死せる者も亦同じくその罪を赦さる。