次に齊廣の試みたるは刑法の改正にして、文政五年十一月四日磔刑に當る者の子を連坐せしめて斬に處するの律を除きしことなりとす。蓋し無辜を刑するの憐むべきは、夙く先侯治脩の注意する所となりしも、藩の老臣及び公事場奉行は容易く祖宗の法を改廢すべからずとなし、固く執りて協賛せざりしなり。是を以て齊廣亦その志を嗣ぎ之を除かんと欲すること久しかりしが、是に至りて斷然教を下して曰く、國初の時に定めたる連坐の法は、以て一時を懾服するが爲に用ひたる權道にして、今日の如く至治の澤に浴する民に臨むの常法にはあらず。曲禮に曰はずや、悼と耄とは罪あれども刑を加へずと。况や親の罪を以て刑を無知の幼稚に行ふは甚だ謂れなし。今より後、齡の少壯を論ぜず悉くこの律を廢すべしと。然りといへども齊廣の改めたるは、磔刑者の子を斬に處する場合にのみ限り、その趣旨は事の悲慘なるを憐むの意に出でしものにして、連坐その事の法理上不條理なるを認めたる結果にはあらず。さればこの後文政六年二月二十七日郡奉行小堀政安等が、博奕を行ひたるものある時その居村に屬する民を盡く連坐せしむるの法を設けんと稟請したりしに、齊廣は之を裁可したりき。 齊廣はその襲職以後二十年間に亙り、假令効果の努力に伴ふ能はざりしにもせよ頗る緊張したる政治を行ひたりしが、文政五年齡既に不惑を超えたりしを以て、文政五年十一月十五日自ら致仕して封を嗣子齊泰に傳へんことを幕府に請へり。將軍吉宗乃ち二十一日これを許し、且つ特に命を齊廣に下し、齊泰の年尚幼なるを以て藩政を攝行せしめたりき。時に齊廣金澤に在り。在封のまゝ讓國の命を得たるもの蓋し異例に屬す。是を以て齊廣は二十九日手書を老臣に與へて曰く、余の始めて封を襲ぎしより、三州統治の重任を帶ぶること二十年の久しきに及びたりしも、未だ何等善政の祖宗に紹ぎ後昆に垂るゝものなきは甚だ遺憾とするところなり。而も尚大過の咎を世に受くるものなきを得たるは、一に卿等の能く輔佐の任を盡くしたるが爲ならずんばあらず。今や余又將軍の懇命を奉じ、當侯幼弱の間尚政務を攝行せんとす。冀はくは卿等更に奮勵一番し、余をして有終の美を濟すを誤らしむることなかれと。