齊泰の藩侯となるや、將軍家齊これを以て己の女婿たらしめんとの意あり。則ち老中水野出羽守忠成を遣はしてその事を齋廣に告げしめ、且つ嫁娶の約定らば藩の待遇上請ふ所必ず之を許すに吝ならざるべしといはしめき。是を以て齊廣は、文政六年正月七日聞番長瀬善左衞門忠良をしてその意を忠成に傳へしめて曰く、齊泰嫁娶のことは既に命の厚きを拜せり。藩の待遇を改むるに至りては謹みて將軍の盛意を謝すといへども、事潛越に屬すべきを以て敢へて請ふ所あらざるべし。然りといへども余の襲職以來、一たび將軍に請はんと欲して未だ言はざりし所のものあり。今幸に將軍の徳音に接したるを以て試みに之を陳べん。抑天下の諸侯たるもの民を安んずるの責あるは皆同じといへども、既に封土に大小の差あるが故にその任の輕重に至りては即ち同じからず。而して余の治する所は領域最も大なるに拘らず、他の諸侯に伍して隔歳江戸に參覲すべき義務を負ふを以て、出發の前後二三ヶ月は百事輻湊し、毫も經國の事務を處理するを得ず。然れば則ち國に在りて專心藩政を視得るものは、實に三年の間に一年に過ぎず。此の如くんば國を治め民を安んずるを欲すとも、亦甚だ難しといふべきなり。且つ余の封を襲ぎし初に當り、將軍は親ら訓誨を賜ひ、汝の領する所國大にしで民多し。宜しく心を治務に盡くし敢へて懈怠すること勿れといへり。その命かくの如くその責かくの如く人なるに、徒らに東往西還して烏兎を消すは頗る遺憾ならずや。希はくは國の爲民の爲に、自今五年にして一覲し、已むを得ずんば二歳を隔てゝ一覲するの制に改められんことを。思ふに參覲交代の制は二百年來幕府の諸侯をして實行せしめし所なるが故に、一朝之を變ずるは頗る容易ならざるべしといへども、將軍今余をして希望する所を言はしむるの意あるを以て、敢へて之を縷陳するなりと。忠成、齊廣が請ふ所甚だ異常なるを以て依違して將軍に報ぜざりき。是を以て齊廣の意遂に徹底せざりしといへども、その趣旨は當時諸侯の悉く言はんと欲したる所のものにして、而して敢へて之を言ひ得たるものは、加賀藩の強大を負ひたる齊廣の勇氣を見ると共に、幕府の積威漸く衰兆を顯せるを察すべきなり。