齊廣の退老後に在りては城外竹澤殿に隱棲し、新たに側用人以下數十の職員を專屬せしめて政務を掌らしめしが、文政七年春更に教諭局を殿内に設け、組頭中より十二人を擇びて之に屬せしめき。時に局中三老三才の名あり。三老は杉野善三郎盟・岩田内藏助盛照・笠岡九兵衞定懋をいひ、三才は山木中務守令・寺島藏人兢・太田小又助盛一をいへり。その他の六人は津田權五郎居方・笠間源太左衞門以信・堀孫左衞門善勝・坂井小左衞門克任・松原牛兵衞有之・神田吉左衞門保益なり。齊廣日に老臣及び局員を會し、政治の得失と施設の先後とを議し、士風を振作し民風を革新し、封内をして至治の澤を被らしめんことを謀れり。齊廣の政務を視る時、毎に嘆惜して曰く、坂井小平克昌・山森權八郎弘の二人をして今日に在らしめば、その献議畫策する所大に濟世に益あるべきなりと。侍臣之に對して、二人の者地下に在りて君のこの徳音を聞かば必ず感泣すべしと應へしに、齊廣は、二人をして生きてこの擧に與らしめ得ざるを憾むなりといへり。