治脩の夫人は、大聖寺侯前田利道の女にして、初名を俊といひ、後に正と改め、又正(マサ)と改む。明和八年婚約し、天明五年二月十五日金澤に移り、寛政十一年四月江戸に往き、二十八日婚儀を擧げ、文政二年九月晦日享年五十六歳を以て歿し、十月八日發喪す。法梁院金岳妙剛と諡し、江戸下谷廣徳寺に葬る。 齊敬は第十世重教の長子にして、安永七年九月十三日金澤に生まる。母は郡上侯青山氏の臣金井與兵衞の女青操院。齊敬童名を教千代といひ、同年十二月十八日治脩に養はれて嗣子となる。寛政二年九月初めて出府し、十一月朔日名を勝丸と改め、同日犬千代と稱し、翌二日又左衞門利博と改む。次いで三年二月十一日柳營に於いて首服を加へ、正四位下左近衞權少將佐渡守に任ぜられ、將軍家齊の偏諱を賜ひて齊敬と改めしが、七年六月二十七日享年十八歳にして江戸に卒し、晦日發喪せり。諡して觀樹院法山道輪といひ、天徳院に歸葬す。齊敬未だ統を承けざりしといへども、既に叙爵せられしを以て、藩侯に准じ世外に算す。 齊廣は重教の第二子にして加賀藩第十二世の主なり。天明二年七月二十八日を以て金澤に生まる。母は郡上侯青山氏の臣山脇守之の女貞琳院。齊廣童名を龜萬千といひ、寛政八年十月初めて江戸に至り、十一月十五日叔父治脩に養はれて嗣子となる。次いで十二月三日名を勝丸と改め、同日犬千代と稱し、翌日又左衞門利厚と號す。九年二月九日柳營に於いて首服を加へ、正四位下左近衞權少將兼筑前守に任じ、將軍家齊の偏諱を賜ひて齊廣と改む。後享和二年三月九日治脩の致仕するに及びて家を襲ぎ、同月十一日加賀守と改め、六月十三日左近衞權中將に進む。文化元年正月二十一日治脩の子利命を養ひて子とせしが、翌年五月二十一日に至りて歿し、次いで八年嫡子齊泰を得たり。文政五年十一月二十一日致仕し、七年七月十日四十三歳を以て竹澤殿に卒し、十二日發喪す。諡して金龍院文古雲遊といひ、野田山に葬る。