享保八年藩侯吉徳の襲封に起り、宗辰・重凞・重靖・重教・治脩を經て、齊廣の文政五年退老せしに至る一百年間は、吾人の所謂藩治停頓期にして、本節記する所の社會相は、主としてこの期間に屬するものとす。但し事の關係極めて緊密なるのみならず、後に復記述の機會なきものに在りては、延きて藩末に至る沿革に及べるもの多し。 第六世吉徳の時は、前代綱紀が不出世の英資を以て、民治に努力したる後を承けたりといへども、江戸時代中期の恬凞は奢侈逸樂の風を増長せしめ、世態の醜陋實に蔽ふ能はざりしこと、之を享保十四年藩が士人の博奕に耽るものを戒飭せる一例に見るも明らかなりとすべし。 御家中の人々行跡不宜者茂有之、第一侍に不似合、博奕に似寄候儀翫申族も有之段相聞え、沙汰の限に被思召候。強而御糺茂被成候はゞ、其人々茂相知可申候得共、先御猶豫被成候。末々之者に而さへ博奕仕候得者急度曲事に被仰付候。増而侍に不都合之儀に候得者、不屆之極に被思召候。相愼不申者も候はゞ、此上者嚴重に御沙汰可有之候間、兼而此旨を存、急度相嗜候樣に頭共指引可仕儀之旨被仰出候條、可被得其意候事。 己酉七月(享保十四年) 〔御定書〕