かくの如きは實に大槻朝元が出頭して勢威を振はんとしたる直前の形勢なりき。而して藩侯吉徳が朝元を登庸するに至りたるもの、亦彼の才智に憑りて弊政を釐革し財用を緊縮するに在りしといへども、その結果は豫期の如くなる能はず。朝元が君恩に狃れたる驕侈の態度は、徒らに人心を動搖せしむるに止りたりき。是を以て宗辰襲封の初に於いて朝元の失脚を見るに至りたるが、これに代りて藩政を更張し風教を刷新するに足るべき偉材を出しゝことなく、次いで重凞・重靖二侯の治世はその期間甚だ短少なりしが爲に、政務を顧みるの餘裕を得る能はず。重教に至りて在職十九年に及びしが、尚何等施設の見るべきものあらざりき。この時江戸は恰も大岡忠善・田沼意次の執柄期に屬し、淫蕩腐敗の風都鄙に普かりしかば、加賀藩の上下も亦この大勢より脱すること能はざりしは勿論なり。 藩政がかくの如く弛緩せる時代に當りて、輕吏の輩民治の何たるを解せず、虎威を假りて亡状を極めしことは想像に難からず。螢の光は能美郡に關する當代の事情を記録せるものなるが、その中に農民が如何に藩吏の爲に惱まされしかの實際を述べて曰く、寳暦より明和に至るまでは、毎春正月以後藩侯の飼育する鷹二据又は三据を有する鷹匠・鳥見等多數郡内に出張し、村落中の資産家を擇び二十日又は三十日に亙りて滯留し、餌指も亦之に附隨し來りて喧騷せり。而して彼等の鷹野に出づるときは悉く濕田の水を落して進退の便を計り、偶鶴の舞ふを見れば里民をして直に報告せしめ、又農民が途上彼等に禮を失することあるときは謝罪の爲に數日を費さゞるべからず。特に彼等が鶴を捕獲したる場合にありては、隣邑皆酒肴を贈りてその成功を祝するを要したりき。又天明以前、能美郡の百姓持山は別宮奉行の管理に屬し、別宮に與力三人、小松に山廻足輕二人を置き、許可を得ずして林木を伐採することを嚴禁せしが、彼等は日々山林を巡邏し、若し刈柴の中に稚松を混ずるが如きことあるときは、村吏を召喚して叱責し、酒肴料を得るにあらざれば赦さず。若し又新たに樹木を伐採せる痕跡を發見すれば、その切株に腰を掛けて村吏に金銀を強請し、若し應ぜざれば別宮奉行に告發して百日の入獄を命ずるを常とせり。且つ農民にして伐木の許可を得んとする者は、與力足輕に多額の賄賂を贈らざるべからず。既に許可を得たる時は、又極印の押捺を求むるが爲數日間その家に宿泊せしめ、土産又は頼母子と稱して金品を與へざるべからざりき。是を以て農民は過大の費用を要するに苦しみ、僅かに數株の木を伐る場合の如きは許可を得ずして之を斷行し、不幸にして發見せらるゝに至れば賄賂を以て罪を免るゝの手段を取れり。されば安永七八年の交、無組御扶持人十村たりし澤村の源治は、農民の窮状を憐み、郡中より年々銀三貫五百目の運上を藩に納れ、以て垣根及び畦畔に生ずる樹木は假令藩の特に保護する七木たりとも尚且つ自由に伐採し、然る後屆出の手續を爲さば可なりとするの特許を得んことを請ひしに、藩はその數種を解除せり。