この期に在りては、士人の娯樂として能樂の翫賞せられしこと前代に優るものあり。而してその演技中最も規模の大なりしものを享保十年藩侯吉徳の入國儀式能とし、九月廿八日・十月朔日・四日・六日・十五日・廿一日の六回に亙りて行はれ、毎日翁立たりしのみならず、初日の翁には餠搗風流を附し、高砂には開口ありき。 夫れ諸侯に三つの寳あり、土地人民政事とこそ。受繼ぐ代々は久堅の、天滿つ神の末として、萬代を猶松梅に、□□も菊の千とせまで、越の白根のもと堅く、惠みも深き國とかや。 〔田中左源太作開口〕 藩侯吉徳亦頗る能樂を好み、自ら囃子に長じたりしことは、寛保二年五月十一日金澤城御表に於いて御慰能九番を演ぜし時、安宅の小鼓を奏せしを以て之を知るべく、その寵臣大槻朝元はこの日道成寺のシテを演じ、朝元の甥大槻長太夫はその太鼓を囃せり。