又藩侯重教に就いては、時人水野知幽の著したる寳生流謠私案集の中に、侯が寳生流の能樂を喜び、江戸よりは寳生源五郎を首として脇方・囃子方・地方の多數を招き、京都の金春流大夫竹田權兵衞及び囃子方も亦來りて、常に演奏の催ありたることを述べ、螢の光にも、重教が退老の後安永六年より九年までの間には、自ら能樂を演じて胥吏農民に至るまで之を觀覽せしめ、その演奏毎日に及べることを言へり。安永九年藩士高田善藏の中村萬右衞門を刄傷せしとき、時人謠曲に擬して『竹の露』の一編を作りしが、その中に重教の隱棲したる金谷殿を指して常能殿と記したるも亦之が爲なり。 安永六七八九年頃、泰雲院(重教)殿名人の能役者御召寄、御自身の御能、諸家中並奧方曁年寄・肝煎・御郡方・十村等、其外小役人・古き百姓迄も、金谷御舞臺にて御能拜見被仰付たり。毎日御能濟て、其儘御鷹野、又御歸舘在て直に御能なり。鷹野・御能のなき日は稀なり。 〔螢の光〕