重教の次代治脩は風教作振を念とし、儒學振興に力を致しゝ人なれば、式樂として能樂を演ぜしむる外甚だしく之に耽溺せざりしといへども、その子齊慶の時に及びて又大に盛なるものありき。さればその襲封の後久しからざる頃の記録に、『去秋已來能囃子流行之處段々流行、春來他行之節於途中囃子之音聲不聞事稀也。炎暑之頃漸く薄く、秋に至又同斷。』といひ、齊廣もまた之を好み、文化六年災後金澤城の修築成るや、五月六日・七日には侯自ら舞伎を演じ、老臣及び營繕に關係したる諸吏に之を觀しめ、同八年二月には同一の事由により普く諸臣をして陪覽せしむること、二日・六日・十一日・十三日・十五日・十八日の六回に及べり。この間饗宴を賜ひたるもの、士人・僧侶・尸祝合はせて二萬千四百二十四人、樂屋に於いて食膳を給せられたるものゝ延人員二千七百十六人にして、京都の今春流大夫竹田權兵衞、江戸の寳生流大夫寳生彌三郎、金澤の寳生流兩大夫諸橋權之進・波吉宮門之が主演者となり、初日には翁に大黒風流あり、高砂に開口ありき。世に文化の儀式能と稱ずるものは即ち是にして、その計畫の詳細は北藩秘鑑に載せらる。 夫れ朝には業命を修め、晝その職を考へ、安きにつくのことはりも、繼ぎて久しき世々の風、めぐみに靡く春なれば、むべも富みけりさき草の、殿作りせし幾八千代、榮えさかゆる國とかや。 〔野尻次郎左衞門直啓作開口〕 次いで同年閏二月十日・十三日・十六日・十九日・廿二日の五日間、又諸臣及び庶民を召して能樂の陪覽を許せり。這次の興行は御慰能と稱するものにして、齊廣自ら老松小書紅梅殿・耶鄲・實盛・玉井・大原御幸・田村・望月・安宅小書延年舞を舞ひ、職分の役者以外に藩士阪田良之助・森權太夫・丹羽余所太郎・永原七郎右衞門はシテを演じ、囃子方を勤めたるもの亦數人ありき。當時藩の老職たりし横山監物隆盛の如きも之を嗜むこと最も甚だしく、文化九年江戸に祗役せる際には寳生大夫を聘して秘曲數番を傳習し、演奏に要する裝束調製等の爲に金貳千五百兩を費せりといはる。