かくて能樂の流行上下を風靡したりしかば、士人にしてその邸第に舞臺を構へたるものすら尠からず。さればこの際、能樂と謠曲との研究に關する書の編纂せられたること、亦頗る當然の事象なりとすべし。今その一二を擧げんに、先づ安永八年菅野恭忠の著したる謠要律あり。恭忠音韻學を修めて之に精通したりしを以て、彼は謠曲者流が只管節博士の練習にのみ沒頭して發聲の理に暗きを遺憾なりとし、初に音韻に關する一般的理論を説明し、終に謠曲の實例に就き開合・弛張・大小・高低の法を詳述せるなり。 夫開合は此道の肝要也。惣じて事のあやを述るにそれ〲の文字有。文字として假名づかひ開合の備らぬはなし。然るに謠曲に於て節はかせ計りを專らに心得て、文字の開合を分くる事あたはざるは、根本を失ひ未練の至りといふべし。古への音曲者は是を肝要として、『文盲の業にはいかでかなふべき文字あつかひの音曲の道。』と申置たり。然るに中古以來取うしなひて、開合といふ事をば文字移り或は口あひと云、またジヂ・ズヅの四つの濁たる假名のつかひわけまでのやうにおぼえ、適々開くすぼむをうたふと云ふ人も、板本・書本等の誤をも正さず、其書本頼みに諷ひ、文字に引合て書記することなき故に、人々是を學ぶべき事をせず。勿論音便・連聲・句當(讀)等のことは沙汰する人もなく、開合の虚實世に衰たり。今日若是れを正しわきまへて假名づかひを會得せば、謠物に限らず凡ての讀物・平生の言語に至るまで、おのづから分明なるべし。古語に曲れるを揉めて直に過すといふ事あり。正音とても多く續く所などにては、舌内もどれて不自由に成て、却て本曲を害するやうに成所も有。左樣の所は知つて捨るといふ事有。節誤り等は句當傳授なくてはたゞし難し。くれなゐ紅葉がさねといふ事のあれば、猶修行すべし。此書唯蒙昧の人に知らしめんと記するのみ。 安永八年九月菅野恭忠 〔要謠律序〕