謠曲の註釋書は、文祿中豐臣秀吉が五山の碩學を南禪寺に會し、百番の謠に解説を加へて二十卷の謠抄を編纂せしめたるを以て、この種の事業に先鞭を著けたるものとすべし。然るに記事頗る簡約なるを以て、寛文五年加藤盤齋は之を補はんと欲し、諷増抄と題して述作に從事したるが、記する所また僅かに高砂以下十五卷に過ぎず。更に之に次ぐ所のものに謠曲拾葉抄あり。初め犬井貞恕の記し置きたるを、門下宜華庵忍銓が四十餘年の功を經て寛保元年に成れる所なりとし、記述百一番に及ぶ。而して加賀の堀樗庵が著せる寳生流謠曲諺解察形子二十卷は、實に謠曲拾葉抄の後を享けたるものなり。 謠曲俚諺察形子は、加州金城の俳士樗庵麥水翁の編述せる書にして、その雅弟巣本梅三字は要人、ことに親しく示教を蒙れる因み深によりて、自筆にものして與へられけるを、故ありて梅三上洛の後予が山寺に住、院内の世事かけひきなど世話し予を助け呉られしが、予甲寅の春(寛政六年)よりやまふ發り、寺を弟子どもに委ね因幡堂に出養生せるに就て、梅三も丙辰の春(寛政八年)より清水成就院に移る。境内門前の支配を勤めよく一山内治め有しが、享和改元の頃より勞きに伏し、加茂川の西六條の北に寓居し、欲するまゝに保養し、法の名を梅庵と改め、終に文化改元甲子五月四日もて歿す。荼毗し、舍利を當山東の阜上にをさめ、標石に碑銘を彫りて墓を營むことゝはなりぬ。此書全二十册、遺物として永く當寺の寳となしぬ。因みありて披見の輩は、阿字一返を唱へ至心に廻向あらんことを希のみ。 洛東歌中山清閑寺先住知直庵獅子吼院木密子巴状 〔寳生流諺解察形子序〕