謠曲註釋書以外には、擬謠曲を集めたる謠曲萬壽抄の著あり。この書の著者は明らかならずといへども、その開卷第一に載せられたる『盆正月』が、天保元年五月藩侯齊泰の子慶寧の江戸に生まれたるを喜び、城下の人民が大規模の祝祭を擧行したる次第を記すものあるが故に、略その著作年代を推察し得べし。又安永九年藩士高田善藏が金谷殿中千鳥の廊下に於いて奸臣中村萬右衞門を刺殺せる事實を脚色したる『竹の露』あり。共に時代相を見るに逸すべからざる好資料にして、その文は別に之を引用せり。その他酒三輪・日待頼政・藥葵上・酒三井寺・自然居士・大食景清・酒鉢木・鼠景清・鵜飼・鐵輪・放下僧の諸短編ありて、何れももぢり小謠たるに過ぎず、遊戲的閑文字として多大の價値を認めずといへども、當時加賀が謠曲國たりし反映として見る時は亦趣味の津々たるものなきにあらず。 齊泰は徳川時代の末に國持大名の筆頭となり、十一代將軍の女壻として榮華を一身に集め得たる人なり。されば一面には父祖の遺風に倣ひ、一面には江戸文化爛熟の氣に狎れて、居常最も能樂を愛し、且つ自らその技に長ぜしかば、上下の好尚悉く之に集中し、寳生流なるものが加賀藩の爲に存在するものゝ如き感あらしむるに至りたりき。かの謠曲雷電が、前田氏の祖先として尊崇する菅公の憤怒せる状を描寫したるものなるが故に、之を廢曲として新たに來殿を作りたるも亦この時に屬す。齊泰また脚氣を疾むこと天保十三年より弘化二年に及ぶ。しかも脚筋の痙攣を覺ゆるものなかりしを以て、平素演能に親しむが爲なりとし、申樂免癈諭一卷を著せり。