世情かくの如くなりしを以て世人の能樂と謠曲とに對する穿鑿、更に微に入り細を極めたること論を待たず。遂には浩翁の如き、頗る特殊なる方面の研究者をすら出せり。浩翁は浩齋とも浩然道者ともいひ、又無間子とも號す。蓋し村井長道の假號なり。長道が謠言粗志訂補を選せしめしことは前に言へる如くなるが、彼はまた所謂能樂愛好者が謠曲八拍子・能辨惑の如き古書を拱璧に比して尊重するを慊らずとし、演技者の扮裝に要する假面及び裝束の研究を試み、その著す所天保元年三月に能面法則あり、同年又假面集録あり、二年九月に面名集あり、同年十一月に謠曲私言あり、三年九月に能面鑑定大概ありき。これ等の中謠曲私言の一部分を除くの外、悉く假面に關する言説ならざるはなし。蓋し能面鑑定大概の序に、『予此道を好み、殊に假面を見ることを好むこと狐の油鼠・王濟の馬の如し。』といへるもの、實に浩翁が僞らざる告白にして、その知識は半ば之れを出目二郎左衞門滿志より得たるなりといふ。浩翁又別に裝束抄數卷の著あり、裝釘描圖の美殆ど人目を眩せしむ。 予去年能面法則二卷及び假面集録を撰す。今茲又出目二郎左衞門がえらべる面集を訂補して、此道の有志にたよりす。但能の意味に於ては古來より講ずる者なし。謠曲八拍子・能辨惑等の諸書ありといへども、恐らくは取て以て用るに足らざるが如し。且つ童蒙の訓とするに迂遠也。故に月に日に意に適ひ心に浮びたるを筆記して、ことしまた一葉を成しぬ。名付て謠曲私言といふ。是を初編とす。 辛卯十一月(天保二年)朔日長街浩翁しるす 〔謠曲私書跋〕 又亂舞樞要論を著しゝものあり。論旨能樂の尊嚴とその必要とを縷述し、滔々として數千言を列ぬ。浦賀灣頭外舶波を蹴つて來往し、天下の風雲將に暗澹たらんとする時、こゝに思ひを練り精を凝らしてこの閑文字を行るの人を見る。豈これ桃源郷裡春眠正に闌なるの觀あるにあらずや。 夫亂舞の來歴久し、故に其變態も亦多し。大略能の翁は元神樂にして綏靖帝の朝に興り、推古帝の御宇に又能の面數種を作る。彼の翁を廣益せん爲なり。其後今樣と稱る者世上に流行し、民間の妓娼之を翫ぶ。又田樂・申樂と號する者、星霜移り變り申樂の新曲數多出で、今樣・田樂を古曲とす。足利鹿苑院義滿公の時、神樂の翁・能の申樂混合して今の能となる。遂に國家の大禮に是を用ゐ、其後連綿張行也。今や公侯の御家、其御爵位に依つて規式を別ち定る事漢土の八佾六佾の如し。又公侯冑子より庶人の童蒙に至るまで、其小曲を教習する事尚ほ勺を舞ひ象を舞ふが如く、萬世不易の舞樂と成る也。 〔亂舞樞要論〕 これ亂舞樞要論の發端にして、安政二年八月波吉左平次愛親の述作なりと奧書せらる。