この期の初に於いて歌舞伎は尚多く流行せざりしかば、婦女子の嗜好は簡易なる音曲・舞踊等に向かひ、その藝人を士家に聘して興行せしむるものありしのみならず、金澤の大蓮寺・三寳寺・養智院等に於いては、寺院維持の資を助くと稱し、觀客一人より銀二匁宛を徴して屢之を催したりしかば、享保十七年冬に至り、藩は町人・寺方及び武家の他國より伎藝の者を招きて興行せしむることを嚴禁せり。是に於いて一時禁を犯すものなかりしといへども、翌十八年春再び盛に行はれたりき。盜賊改方奉行茨木覺右衞門之を知り、組付足輕數十人を隨へて、正月晦日の夜より食祿六百石を受けたる馬廻組の上鹽川安左衞門の家を偵察し、二月二日演技終りて觀客の出づるを待ちその十餘人を捕へしに、他は多く屋内に隱れて出でず、或は姿を變じて遁れ去れり。是を以て藝人等大に恐れて皆郷里に歸らんことを請ひしかば、安左衞門は彼等を馬廻組伴時之進及び小將組里見彌四郎の家に轉ぜしめ、その旅裝を整へたる後夜に乘じて窃かに送還せり。その後、先に藩に捕へられたるものゝ中、道具屋市右衞門は押込を命ぜられ、島屋與三兵衞以下八人は差扣となり、興行を主催したる鹽川安左衞門は訓戒を加へられき。而して觀客中士籍にある者の一人も罰せられざりしは、捕吏が藩の方針に從ひ努めて帶刀者を逃走せしめたるによるといふ。この年十一月本多安房守政昌は、藝人等の商賣に混じて城下に入り來れる疑ありしを以て、また茨木覺右衞門に對し嚴に之を取締るべきを命じたりしに、十二月十二日盜賊改方は藝人が藩士渡邊伊織の邸に入るを認め、伊織を召してこれを糺問せり。伊織則ちその女の近く嫁するを祝せん爲、男子の客には囃子を、女子の客には舞踊を觀覽せしめしなりと辯解せしも許されず、遂に逼塞を命ぜられ、同時に今春禁を犯したる鹽川安左衞門も亦遠慮の刑に處せられき。