かくて加賀藩額に於いては、これより四十年の久しきに亙りて、演劇その他の諸興行を見る能はざりしが、支藩大聖寺領には宗藩の如き禁令を布かざりしと見え、寳暦十年江沼郡山中の醫王寺が、堂宇修營の資を得る爲なりと稱して富突を計畫せし際、諸人を來集せしむるの手段として門前に操芝居を興行せしめしに、頗る地方人の歡迎を得たることあり。その後大夫政右衞門は毎年來りて附近の諸邑を巡り、又寳暦十三年には山代に藝子芝居の行はるゝありしが、次いで能美郡串にもその興行を見るに至りたりき。 寳暦十年より加州山中醫王寺に、諸堂修造の願ひにより芝居・富突など御免を蒙り、門前更に三都の如し。其中人形芝居は淡路の政右衞門といひける者、年々に是より來りて芝居を初め、この外近里遠村群集すること今や三四年に及びぬらん。其砌山代といふ湯元へも又芝居あやつりなんど初りて、あちこちと狂言の雜具など持運びける。年暮るゝに及びて山代・山中等の百姓庄屋等の藏へ此雜具を預け、明る春は人の群集すべき頃を考て又あやつりを初ることにてありける。 〔三州奇談〕 ○ 母の物語に聞、享保の末か、元文の頃か、山中に芝居有。是加賀國にて芝居の濫觴なりとかや。夫より四十餘年を經て、寳暦十三年癸未川代に藝子芝居有しが、其芝居直に串へ來り初、夫よりあやつり・歌舞伎、或は大相撲・曲馬・輕業の類ひ、連年絶ゆる事なく、今は常とはなれり。 〔螢の光〕