加賀藩の演劇は、安永四年八月以降許可を得て、金澤春日社内・宮腰等に淨瑠璃芝居を興行せしを以て再興の初とするが如く、しかも尚表面は木遣狂言と稱したりき。春日社に在りては、朝六半時に赴く者すら入場する能はざる程に人氣を博し、十二月二十七日に至るまで繼續せり。翌年五月より又松任・山ノ上村等に興行あり、同六年五月にも卯辰八幡社に木遣狂言ありき。その後漸く隆盛となり、天明四年二月には金澤の愛染院が寺用支へざるを以て芝居興行の許可を得、その收益頗る大なりしかば他の寺社にも之に倣ふものを生じ、翌年六月卯辰八幡社は人形操を催し、春日神社・神明神社等また之に次げり。是等の俳優は、初め皆他國より入り來りしが、幾くもなく目むき仙藏・泣與三助以下多くの地方俳優を生じ、諸社の祭禮にも常に祭芝居の行はるゝものあるに至れり。しかも是等興行地の許可せられたるは寺社又は郡地のみなりしが、同三年十二月藩は城下の民心を和順ならしむるの策を町奉行に諮問せしに、町奉行は歌舞伎狂言を興行するを以て是なりとし、千日町の町端に五十間四方の地を劃して之に當てんと請へり。年寄等乃ち之を採納せんと欲せしも、家老の輩は假令歌舞伎を行はしむるも民心をして和順ならしむべき理なしとし、多年坊間に演劇の公行を見ざりしに、今之を許すときは却つて放逸懦弱の氣を助長すべしと説き、以て強硬の反對を試みしかば議遂に行はれずして止めり。 この頃加賀より出でゝ最も名聲を博したる俳優に、初代中村歌右衞門ありき。歌右衞門は家號を加賀屋、俳名を一先といひ、金澤の醫大關俊安の子にして、幼名を柴之介といへり。柴之介幼より放縱にして讀書を好まず。初め家業を棄てゝ藩士の僕となり、後大坂・江戸に流寓すること數年。終に中村源左衞門の門に入りて俳優となり、寛保二年京都の早雲座に登場し、延享四年大阪の大松百助座に轉じて希代の實惡と稱せられ、天明九年中之座に於いて一世一代の狂言を演ずるに至るまで、演技實に四十八年の久しきに及び、寛政三年十月二十九日七十四歳を以て歿したりき。文政六年追悼の碑を金澤卯辰眞成寺に樹つ。その子市兵衞三代歌右衞門となる。俳名は芝翫、後に梅玉といひ、又百戲園とも號し、狂言作者としては金澤龍玉といへり。天保九年七月十三日六十一歳を以て歿す。