次いで藩は金澤町會所をして一劇場を直營せしむるの議を決し、文政二年四月犀川川上新町にこれを建造し、五月六日より初興行を爲せり。この芝居の座本中山新平は、舊と大工職たりしが故に、建築・大道具等のこと凡べて彼の指揮によりて成りたりといふ。是より延命院芝居の役者は皆こゝに移り、地方俳優を交へて興行したりしが、建築の設計甚だ適當ならず、且つ場内挾隘なりしを以て六月八日よりこれを中止し、更に京都四條の南芝居を摸し、前口十三間奧行三十一間半の巨屋を構へ、その見物席は棧敷東西二十六坪、鶉東西二十六坪、出東西二十坪、孫束十坪、平切七十七坪にして、一坪五人詰とする時は七百九十五人を容るべく、その他平場は六尺四方を一坪に算して四十五坪に當り、毎坪九人詰とすれば四百五人を容れ、尚棧敷の後部及び聾棧敷に大入するときは五百人を容るべく設計し、この年六月下旬工事に着手し、九月上旬功を竣りしに、結構の善美なること三都にも多く比を見ずといはれ、坂東七之助之が座本たりき。是より先、俳優花桐岩吉・岩井喜代太郎の一座新たに來りて、春日神社の假小屋に興行せしが、川上芝居の成るに及びて之に移り、九月十三日二島英勇記を以て開場せり。次いで文政三年五月山下八百藏一座の來りて、伊賀越乘掛合羽を上演せし時、初めて小屋の表飾たる招板・繪看板・高櫓・梵天・釆配等凡べて三都芝居と同一ならしめ、座本坂東七之助は名を菊川松之助と改めたりき。 是の年(文政二年)五月六日より川上芝居相始候處、芝居小屋不手廻し之由にて普請有之、今一遍結構に修理有之。此度より上方役者永續芝居興行被仰付也。茶屋は左右向側三方に相建、其家作り美々敷、尤二階作りにして不殘一間々々に提灯を釣り、淡雪・くつわ・一力・葉櫻を初め、茶屋方十餘軒なり。入口二ヶ所有之、木戸守兩人充勤番致す。木戸の高に制札有之、此木戸の内惣而帶刀の人入るべからずと有之。依而木戸の外茶屋に帶刀預り所有之、格別好之人は、是え帶刀預け參る者有之由なり。芝居小屋入口には町附足輕並主付町肝煎等相詰、尤縮り方嚴重ゆゑ口論等曾而無之。上之御仕入芝居なれば、尤左も有べき事なりと世上の咄なり。同年九月十三日より重而芝居相始る。上方役者なり。 〔齋廣御傳略等抄〕