文政四年六月藩は、川上芝居の北方に接して別に一劇場を建築するを許せり。因りて藤川一松を座本とし、八月十八日中村歌之助一座にて有職鎌倉山を上演す。こゝに於いて、前者を南芝居と稱して上方役者の演技場とし、後者を北芝居といひて地役者の興行場と定む。然るに文政十一年に至り、兩芝居の存在は多きに過ぎ、興行の成績亦可ならざるものありしを以て、北芝居を廢し、南芝居を犀川川上芝居座と復稱せり。當時木戸内には十八軒茶屋ありて觀客の利便を謀り、木戸外にも若干の茶屋あり。上方俳優の乘込みたるものも亦木戸内に止宿所ありてこゝに滯在し、新藝題の開演せらるゝ時は二日前より太鼓を城下に巡行せしめて披露せり。『觸れてくるやととんとろつくやととんと囃す太鼓の打込ぞよき』などゝ詠じて、太平を謳歌せられしもの即ち是なり。 犀川川上芝居座圖金澤市池亮吉氏藏 犀川川上芝居座図 かくて犀川川上芝居座が盛況を持續すること十數年に及び、坂東重太郎・中村鶴助・片岡あやめ・片岡市藏・中村重藏・尾上多見藏・市川瀧十郎・市川白藏・中山文七・松島清藏・市川虎藏・尾上菊五郎等の名優前後に來りしが、天保八年五月市川八百藏の來りし時は、北國未曾有の飢饉の後を受けて疫疾流行し、彼が妻もまた歿せしかば、八百藏は作善の爲に、茶屋淡雪に於いて飢民二千人に錢五十文宛を施したることあり。翌九年八百藏尚滯留して興行を繼續せしが、七月十八日藩は突然之を禁止し、その小屋を賣却せんとせしも、拂下を希望するものなかりしを以て、當時再建中なりし東木願寺末寺の掛所として寄進せしに、一向宗の信徒たる市民は大に喜び、八月二十五日以降獅子・祇園囃を隨はしめて取毀ちたる木材を運搬せり。演劇禁止の理由は、比年凶歉相繼ぎたるを以て奢侈の風俗を戒めんとしたるによる。 犀川川上芝居番附(天保三年)金澤市正木みつ氏藏 犀川川上芝居番附