されば啻り士人のみならず、枯淡の生活を守るべき清僧にありてすら醜汚の行を爲しゝもの尠からず。文化十二年寳圓寺前住慈鼎九峰等の罰せられしは、その最も著しき一例なり。九峰は舊と篤行の譽ありしかば上下の崇敬淺からず、藩侯治脩の子利命及び治脩の物故するや並びに導師を命ぜられたりしが、藩士野村傳兵衞の寡婦に惑はされて遂に婬樂に耽るに至りたりき。是より先、泉寺町の香林寺に天苗といふものあり。また石坂の魔窟に入りて醜聞ありしに、九峰は曹洞一派の觸頭たりしを以て、之を面罵したる後利害を諭して出奔を勸告し、且つ曰く、汝他國に遁れなば必ず金銀を要するもの多かるべきも、我は汝の爲に之を贈るを辭せざるべしと。是に於いて天苗は去りて京都に赴き、爾後屢書を以て九峰の助資を請ひしに、九峰は毫も顧みることなかりき。葢し九峰は、一は己の惡行の摘發せられんことを慮り、一はその徒弟をして香林寺の後住たらしめんが爲巧に欺きしなり。天苗乃ち復金澤に歸りて九峰の動靜を窺ひ、文化十一年八月十五日婬婦の來りて九峰の寮に在るを知り、忽ち闖入して恐喝せり。九峰大に驚き、天苗の法兄桂巖寺天麟に請ひて彼を宥めんとせしも、天苗は之を容れずして相爭ひしが、事遂に藩吏の知る所となり、探査の結果曹洞諸寺の奸惡發覺して刑に處せらるゝ者甚だ多かりき。就中九峰の罪最も重かりしも、寳圓寺が藩侯歸依の巨刹たりしを以て天徳院に責付せられ、翌年四月座敷牢に在りて死せり。或はいふ毒殺せられしなりと。世本多く九峰を久寳と書きたるものあれども非なり。野村氏の寡婦も、亦親族の家に在りて終生座敷牢に檻置せられ、その後見たりし田邊佐五右衞門は監督の責任を盡くさゞりしとの理由によりて遠島に處せられ、天苗・天麟及び之に連座したる長久寺・龍徳寺・隆圓寺・希翁院・寳勝寺は、同年十月六日野町に磔殺せられ、照蓮寺と金剛寺とは夙く出奔したるを以て刑を免るゝを得たりき。