遊廓免許の當初に於いては、從來の出合宿を嚴禁したること前述の如く、而して所々に散在したる隱賣女一百五十人は悉く町會所に抑留し、次いで免許せられたる茶屋業者綿津屋忠藏・能登屋宗助・茶屋太郎兵衞等八九人に無給銀を以て交附せられしを以て、彼等は之を公娼として使役し、上は五匁、中は三匁、下は百文にて聘に應ぜしに非常の繁榮を極め、百文店にして一夜の收入錢五貫文に及ぶものすらありしといへり。 遊廓の家屋も亦文政三年の布告に、在來の構造のまゝ華美を避けて營業すべしと命じたるに拘らず、各その外觀を壯麗にし、前面を一樣に格子造となし、夜は家名を記したる行燈を掲げ、晝は定紋を染めたる暖簾を吊し、特に松屋伊右衞門の家には波に兎を彫刻したる欄間を用ひ、能登屋宗助は二階に繪天井を用ひたりき。されば帶刀の者又は袈裟衣着用の者の廓内に入るを許さゞる制札を立て、農民も同じく登樓を禁ぜられしといへども毫も實際に行はれず。木戸口に帶刀預所すら設けられ、遠く郡村より來りて金澤に逗留し、多額の金銀を浪費する者もありしかば、茶屋業者の利益を得ること莫大にして、遊廓免許の事に關したる藩の老臣村井又兵衞長世・町奉行山崎頼母範侃二人を崇め、終に彼等を祀るが爲に觀音町に村山大明神の社殿を造營し、次いで之を廓内に移したりき。この社殿に天滿宮と顏したるは、二十五日に遊廓公開の許可せられたるに因るなり。而して之を認めたる藩侯齊廣も亦彼等の徳とする所となり、その菟裘たる竹澤御殿を經營せし際には、謝恩の意を表するが爲兩茶屋町より特に銀十五貫目の運上を上り、齊廣薨去の際には墓標を運搬するの役に當れり。 是の年(文政三年)卯辰・石坂兩所に遊女町、兩曲輪共方一町四方餘の圍を付、卯辰は三番町の方に木戸を付、石坂は野町二丁目に木戸相建、帶刀人は廻方役人の外は一人も不通、番所を構へ晝夜兩人宛勤番致し、尤おやま・藝者地・他の美婦人を買請、木戸外えも曾て不出、地・遠(地方遠所)とも町家の身元宜しき者の子弟或は番頭手代抔を引入、晝夜共酒宴三絃太鼓、誠に其陽氣なる事三都にも劣らぬ事共なり。是も村井殿並山崎の取計ゆゑ願相叶候抔と世上の取沙汰なり。右兩所曲輪内に鎭守を建立、春秋是を祭る由。其神名は村山大明神と神號を付、一統是を信崇すると聞。然れば右頭の字を合し祭りしか、又は村山の社號外に謂れ有か、追而穿鑿すべき事なり。 〔齊廣樣御傳略等書拔〕 卯辰茶屋町版畫金澤市村松七九氏藏 卯辰茶屋町版画