かくて金澤の東西二廓は公許せらるゝこと十二年間なりしが、天保二年八月十六日藩侯齊泰は令を下して斷然之を禁止するに至れり。これ即ち前の免許を喜ばざりし老臣本多播磨守政和が廟堂施政の方針を一變せしめ、藩の風教を維持するが爲には娼婦の横行を許すべきにあらずとせるに因り、之と同時に茶屋稼業の者に對して悉く正業に復すべきを勸告したりき。茶屋業者乃ちその苦境に陷るを憂へ、町奉行に歎願して曰く、當今東西兩廓に營業する者百六十餘戸、遊女二百有餘人、その一人に投ぜる資銀は一貫目乃至二貫目にして、一戸多きは五七人を有するものあるが故に、今直に之が解放を命ぜらるゝ時は抱主の損耗言ふべからず。是を以て或は藩命に背き、遊女をその生家に還らしめずして領外に轉賣するの不正を爲すものあるを測り難し。因りて藩は若干の資銀を與へて損耗を填補し、以て茶屋業者の窮厄を救濟せられんことを請ふと。町奉行も亦彼等の請願を理由ありとし、八月廿一日御用番本多政和に銀四十貫目を支出せんことを求めたりしかば、藩は遂に之を容れ、家持百十一人に對して三百目宛、店借五十一人に對して百八十目宛、廓内に住して茶屋以外の業務に從ふ者八人に對して六十目宛を與へ、九月十五日木戸を除却せり。然るにその後、尚卓袱(シツボク)女と稱する給仕婦を仕立て、私かに遊女類似の營業を繼續する者多かりしかば、弘化三年十二月從來この地が遊廓たりし觀念を脱せしめんが爲、先に遊廓廢止の際卯辰茶屋町及び石坂新地の名を改めて舊稱茶屋町及び石坂町に復したりしを、更に茶屋町を改めて愛宕一番丁・二番丁・三番丁と呼び、兩地共に二階造又は多數の客室を有するものを普通の住宅に改造せしめたりき。藩末に及び、慶應三年九月再び公許を得て東西兩新地と稱したるもの、亦この地なり。 今般御食議之趣有之、愛宕町・石坂町兩所於舊地遊所取開候儀御開屆被成候之庭、於右兩所圍出來、當九月九日より茶屋商賣爲相始候旨町奉行申聞候。依而右日限より、帶刀人は勿論、懸(カヽリ)役人之外一刀帶候者に而も圍内へ入込候儀堅爲指留、押而立入候者は爲召捕候筈に候。 右之趣一統可被申談事。 八月(慶應三年) 〔御觸留〕