城下以外に在りては、大聖寺藩に屬する能美郡串茶屋の遊廓が唯一の免許地たりしこと尚前期の如し。之を以てその發展頗る著しく、文化・文政の頃に至りては江戸の吉原・京の島原の姿體を學び、遊女の服裝に錦繍を用ひ、頭髮に鼈甲の櫛笄を飾り、飮食の器具・家屋の構造皆善美を盡くしゝかば、遊冶の徒大聖寺・小松・金澤等より來りて驕奢を鬪はす者多く、歌吹の聲涌くが如くなりき。是を以て、文政六年十一月三日串茶屋の劇場附近より出火し、部落の大半を燒夷せしに拘らず、忽ちにして舊状を挽回したりしが、天保十三年水野忠邦の勤儉令を布くに及び、大聖寺藩亦旨を奉じて服飾器玩を簡素ならしめ、吏を派して室内の華麗なる建具を撤し、桂・壁等の如きは利器を以て之を傷づけたりき。是に於いて一時頗る殺風景なるに至りしも、後禁令の漸く弛緩するに及びて復勃興し、明治五年の娼妓藝妓年季奉公人解放の令ありし時に至るまで繼續せり。