遊廓の勃興と演劇の流行とは、その當然の影響として男女の情死を生むに至れり。明和七年六月串茶屋の妓喜世川は、情人小松町の魚商吉郎右衞門の子吉三郎と、夜芝居の閉場して嫖客の來往絶えたるを窺ひ、相携へて今江潟に赴き、吉三郎先づ喜世川を斬りて之を水中に投ぜしが、時將に黎明に近かりしかば、吉三郎は自殺の機を失ひ、小松に歸りて乳母の家に潛匿せり。加賀藩の吏之を知りて吉三郎を索むれども得ず、乃ちその父を捕へしに、吉三郎は意を決しお萬ヶ淵に投じて死せり。吏之を檢屍し、乃ち相對死(アヒタイジニ)なりと斷じて父を釋放せり。遊女情死の事の文献に見えたるもの是を以て濫觴とす。次いで文政元年九月三日品川・徳兵衞の情死事件あり。徳兵衞は金澤野町二丁目茶屋喜兵衞の二男なりしが、曾て串茶屋の演劇を覽、歸路木屋三郎左衞門の家に遊興して遊女品川に惑溺し、八里の途を遠しとせずして屢慇懃を重ねたる後、遂に落籍せんと計るに至りたりき。品川亦之を喜び、自ら賠償の資金を得て徳兵衞に力を假さんと欲し、僞りて豪富の嫖客に秋波を送りしかば、徳兵衞はその異志あるを疑ひ、一夜短刀を以て突如品川を刺せり。品川乃ち死に臨み語るに實を以てせしかば、徳兵衞は己の輕擧を悔いて亦自害したりき。この事頗る巷間に喧傳せられ、遂に盆踊の唄に作られて、秋宵月天心に澄むとき、『木屋と名のりて評判の、暖簾に書きし木の字さへ、咲き亂れたる花盡し、中に名高き品川が、今は十九に成り振りも、吉野櫻の美しさ。その美しき品川を、渡りて末に沈むとも、知らぬ小兵衞が淺瀬川、一夜遊びて空しくも、夜明鴉の啼き別れ。』なる俗調が青年男女の哀愁をそゝりしこと、星霜多年に及びたりき。但しこの唄に徳兵術を以て小兵衞とし、彼が松任の産なるが如く傳ふるは謬なり。