その後串茶屋に於いては、天保八年三月二十八日佐見屋善七の抱女かはちと、安宅町森下屋孫太郎との情死あり、文久二年六月朔日には清右衞門の抱女さをと、小松町番匠屋伊兵衞との情死あり。情死ならざるも妙齡空しく一生を狹斜の巷に經りたる者固より多く、是等は皆串茶屋の東北郊外松林中の塋域に葬られ、里人その地を女郎墓と稱す。碑碣現に存するもの十五基、寳暦に初りて萬延に終り、概ね戒名・俗名・忌辰を記し、或はその年齡と紋所とを刻す。而してその規模、此等の輩の石塔として甚だ壯大の感あるもの、亦以て地方民心の樸實を證するに足ると説く者あり。遊女が身賣證文の一例左の如し。 證文之事 一、私娘なをと申者、當年貳拾貳藏に相成申候。今般貴殿娘に貰ひ請申度旨承知仕候。依而娘心得之上、親子縁切として金子五兩貳歩難有請取申候。是以後貴殿娘に候得ば、如何樣共御勝手次第に御座候。 一、旦那寺又は親類等何等も申儀無之候得共、若彼是御座候はゞ私共罷出、貴殿え少茂御難題懸申間敷候。 依而縁切證文差上申處一札如件。 金澤在十一屋柹畠五郎右衞門事 當時京都下立賣千本西へ入 嘉永三年戊十一月親元加賀屋五郎右衞門 同淨福寺下長者町上ル 請人丹波屋勘兵衞 加州能美郡今江村 中村屋三郎右衞門殿 〔宮崎氏文書〕 女郎墓在能美郡御幸村 女郎墓