民間の娯樂に又萬歳ありて、毎年正月越前國野大坪の農民等城下に來りて之を演じ、諸士の家に就きて米錢衣服等を得、二十日に至りて去るを例とせり。越前萬歳の由來に關しては、巷説に、前田利家が苦戰に陷りし際、野大坪の農小屋に潛匿したりしが、その意を受けたる百姓の子弟が小屋の前にて萬歳の歌謠を奏し居たりしに、敵遂に索むる能はずして去りしことあり。是を以て利家の金澤に封ぜられし後彼等の舊恩に報ぜんがため、來りて城下にその技を演じ米錢を得るを許したるなりと。然りといへども、此くの如きは固より訛傳にして採るに足らず。蓋し利家の同國府中に治せし時、野大坪は恐らくその封邑に屬せしなるべく、隨つてその農民が利家の加賀に就封せるを喜び、年々來り祝するの慣習を爲すに至りしものゝ如し。堀樗庵の三州奇談にもこの事を解して、『元和元年世靜謐になる時、三河の者共家康公の御下の百姓なりとて江戸へ出で賀儀を申上げ、田舍謠・幸若いひて御引出を貰ひ來る。是三河萬歳の初なり。是を聞きて越前府中にも雛が嶽の下の者共、加賀利家公の御下の百姓なりとて、金澤に行て賀儀申上げ、御酒飯など下さる上にて、里踊小舞せしより事始る。』といへるは、極めて穩當の説明なり。その後越前萬歳の來るもの漸く多きを加へ、士民の嗜好益盛にして、夜に入るも尚市内を徘徊するものあるのみならず、服裝亦華麗を極めしかば、天明七年正月十日にはその九人を召喚して譴責せしことあり。 近代に及び金澤の市民中にも餘技として萬歳を學ぶものを生じ、殊に文化・文政の頃金屋町に大石藤五郎といふ者ありて、頗る獨創的才幹を有せしかば、新體の舞容を考案して地萬歳(ヂマンザイ)の肇祖となれり。地萬歳は地方的萬歳の意にして、多く方言を交へたる一派とし、後には大石・小石・若石・乙松・小倉野寺の諸系統に別る。その曲目は凡べて六十番に達し、越前萬歳に在りてはお染久松・平井權八の如き世話物を演ずるも、地萬歳は嘉瑞を表するを旨とし、七福神・道具盡等に重きを置けり。