かくの如き際に當り賭博の流行したりしこと亦言を待たず。次に記したる白銀屋與左衞門の逮捕せらるゝや、諸士中亦與左衞門等と共に賭博を行ひたるものあること發覺し、寳暦十三年深尾安左衞門以下五人に閉門、瓜生善太夫以下二人に遠慮を命じ、瓜生伊兵衞以下二人は戸主にあらざるを以てその父に責付し、翌明和元年には同一事件に關して、賭博の爲に家屋を提供せる津田三郎左衞門以下六人の祿を奪ひ、津田數右衞門以下十七人は閉門の後減知せられ、足輕田中喜太夫も亦扶持を召放されたりき。諸士の濫行此の如しとせば、庶民中に禁を侵しゝものゝ多かりしこと固より推察し得べきなり。 生活の奢侈と金融の梗塞とは、窃盜を出すの最も好機會たるを失はず。この期間に於いて、藩治時代を通じて緑林傳中の巨魁と稱すべきものを見たるは、その理由實にこれに由る。その一は白銀屋與左衞門にして、寳暦十二年十一月晦日藩吏の捕縳する所となりしものなり。與左衞門は元と能登の産なりしが、金澤に出でたる後白銀屋に養はれて技を桑原源左衞門に學べり。白銀屋とは金銀細工を爲すものにして、源左衞門は彫金の名工たりき。與左衞門性法懦にして、容姿婦女子の如くなりしが、初め賭博に耽りしより女色に溺れ、遂に竊盜を業とするに至れりといふ。與左衞門の爲す所眞に倫を絶し、士庶の倉庫を破ること十七回に及び、甚だしきは庫中に止ること二夜・三夜又は四夜に亙り、晝間の喧騷に乘じて盜品を選擇し、家人喫飯の間を徐歩して遁れ去りしことすらありき。明和元年四月二十七日生胴に處せられ、その男兒の十三歳にして前田孝昌の臣木村惣太夫に仕へし者も、亦連座して刎首に處せらる。堀樗庵の著越廼白波の中に之を傳せり。 主計町白銀屋 生胴與左衞門 右之者、寳暦十三年賊之儀に付召捕遂吟味候之處、數年來數十ヶ所にて賊仕候へ共品物員數相知不申、誰彼寄合博奕仕、且又御馬廻組前波故儀兵衞娘と密通罷在、互に申合其自宅え呼寄隱置、殊於公事場相牢之者申談牢屋を可破仕形有之候事。 一、せがれ一人有之、死罪に被仰付候事。 〔刑法拔書〕 堀樗庵著越廼白波自筆本金澤市殿田良作氏藏 堀樗庵著越廼白波自筆本