加賀藩主第十三世前田齊泰の施政は文政に初り、天保・弘化・嘉永・安政・萬延・文久・元治を經て慶應に及ぶまで四十五年間に亙り、時恰も江戸幕府末期の匇忙に際したるを以て、藩治も亦頗る多事多難なるを免るゝ能はざりしが、その最初に起りたる事件は、先侯齋廣の監國政治に與りたる組頭を中心とする一派と、今侯齊泰の親政に伴ひて新たに廟堂に立ちたる年寄に荷擔する一派との軋轢排擠なりき。 抑藩の制によれば、年寄は藩臣中の白眉たる所謂八家の重臣中より交互任用せらるゝものにして、組頭は廣く平士中の才能を拔擢登庸するものなるが故に、二者の權力はその地位と共に著しく軒輊あるを常態とすといへども、齋廣の晩年に於いて、齋泰の政を攝行する機關として、組頭を擧げて教諭局を組織せしめ、大小の政務盡くこゝに決するに及び組頭の勢力頓に偉大となり、年寄等は空しく手を拱してその成を仰がざるべからざることゝなり、殊に組頭の一人たりし馬廻頭寺島藏人兢は、學識手腕共に儕輩に卓絶し、最も經世の才に富みたるを以て、巨祿の徒にしてこれに師事するもの十を以て數へられたりしかば、年寄等は之を白眼視すといへども如何ともすること能はざりき。然るに文政七年七月齊廣卒して齋泰の政を親らするに至り、教諭局を廢してその職員を免じ、舊制に遵ひて長甲斐守連愛・前田土佐守直時等を樞機に與らしめたるを以て、政權再び年寄の掌握する所となりたりき。 この年閏八月四日、齊泰國に在りて教を群臣に下し、祖宗及び先侯立つる所の法は一に之を遵守して失ふ所なかるべきを告げたりしに、十五日馬廻頭寺島藏人は書を諸老臣に致して、從來年寄等施す所の政治が先侯の意に反するものたりし所以を述ぶること滔々數千言に及び、以てその反省を促さんとせり。その略に曰く、夫人臣にして君徳を民に及ぼすことなく、徒らに聚歛鞭朴の政を行ひ、言を飾りて上を欺き、功賞を貪り地位を固くし、而して民の怨を國家に積ましむるもの不忠これより大なるはなかるべし。余初め老職の爲す所を以て悉く主君の意より出づるものなりと思へり。然るに今年春余先侯の知遇を得て教諭局の員に備り、日夕親しく徳音に接するに及び、嚮に有司の行ひし所先侯の意と頗る徑庭あるを知り、私かに怪しみて理由を先侯に質しゝに、先侯は、既往の事多くその思慮の外に出づ。故に頃者有司の民に施しゝ跡を見、民の疾苦する状を知りて大に悔悟に堪へざるものあり。是れ余の發奮して大に爲す所あらんことを期する所以にして、余の教諭局を設けたる理由も亦是に存すと宣へり。且つ先侯臣等に示す所の款條中にも、或は吏務に在るもの多く飾言して虚美を以聞するが故に政事の實績擧らずといひ、或は國政の良否はその人を得ると得ざるとに在りともいへり。されば先侯の志を立つる初、先づ股肱の任に堪ふるものを左右に求めて得ず。乃ち已むを得ず衰耄の杉野善三郎盟等若しくは不敏余の如きを登庸するに至り、遂に先侯をして、加賀が天下の大藩にして經濟の才に乏しきこと此の如く甚だしきは、即ち上下二百年の太平に狃れ、士大夫皆教養の道を失ひ、或は散樂・茗讌に荒淫し、或は漁獵・放鷹に惑溺し、學問・武技を度外視するに是れ由ると慨嘆せしめたりき。是を以て先侯の教諭局を設くるに及び、宵旴の勞を辭せずして風を移し俗を易へんと欲し、仁義忠孝の道を鼓吹し、徳澤を無窮に垂れんと謀り給ひしは、諸君の皆親しく知る所なり。夫れ先侯の志此の如く偉大なりしに、未だ畫策の一端をだに實現するに及ばずして、遽かに舘を捐つるに至りしもの、その遺憾果して如何ばかりなりしぞや。余輩先侯の衷心を測る時は實に日夜悲痛に堪へざるものあり。思ふに諸君も亦必ず當に然るべきものあるべし。然らば則ち諸君が今日幼主を輔翼して先侯在天の靈を慰めんと欲せば、須く先侯の遺訓を奉行し、先侯定むる所の款條に率由して事を行はざるべからず。若し能く此の如くなるを得ずんば、小人隙に乘じて阿諛を呈し聰明を蔽ひ紀綱を紊すべく、奸商の利を射んと欲する者亦理財の吏に夤縁して新法を設けしめ、以て非常の僥倖を邀へんとするに至るべし。而して吏僚或はその弊を洞見して抑制せんとするときは、彼等則ち當路の門に出入して賄賂を納れ、讒言を構へて正義を陷れ、己の慾望を達せずんば已まず。余輩嘗て見聞せし所のもの往々にして是の如きものありき。况や今日幼主國を率ゐ、政務の統一を缺き易き時に於いてをや。若しこの際先侯規定する所の款條に率由せず、玉を改め又行を改むるが如きことあらば、紀綱直に弛みて百度皆廢れ、上は下に禍し下は上を怨み、日に積み月に重なりて遂に救ふべからざるに至るの憂なきを保せず。豈懼れて愼まざるべけんや。抑國家を保つ者は、民の服すると服せざるとによりて榮辱を別つといへり。先侯の疾に罹りし時、庶民或は遂に起つ能はざらんことを憂へ、日々白山比咩神社に詣でゝ平癒を禱る者ありしに、近臣之を知りて先侯に告げたりき。先侯曰く、群臣の中或は此の如きものあるべし。庶民にして之を爲すといふは我決して信ずる能はず。余未だ一の善政を庶民に施しゝことあらざればなり。蓋しその人は別に禱る所あるが爲ならんと。近臣乃ち彼等が實に先侯の病の爲にすることを述べしに、先侯は泫然として流涕し、果して然らば余の喜また之に過ぐるものなしといひ給ひき。嗚呼先侯が民心を得るを以て盛徳なりと爲しゝこと此の如し。然るに俗吏の輩經國の要諦を知らず、目前の細利を貪りて聚歛鞭朴を事としたりしを以て、衆民先侯の恩澤に浴すること能はず。先侯の舘を捐つるの日、思慕の情太だ厚からざるを見るに至れり。余これを念ひて日夜痛哭に堪へず。願はくは諸君、幼主を輔佐して先侯有爲の遺志を紹ぎ、聚歛鞭朴の形跡を除き、深仁厚徳の政を布かば、群臣忽ち感奮興起し、萬一の報効を期するもの先を爭ひて進まん。是の如くにして人才自ら輩出し、風俗自ら敦厚に歸し、民心自ら上に親しみ、國家無窮の平和能く保つべきなり。余區々の誠、先侯終天の恨を懷くを念ふに堪へず、踰越の罪を顧みずして敢へてこれを左右に告ぐ。諸君幸に諒察せよと。而も年寄等は藏人の言ふ所に從はず、十二月却つて先侯の禁令を弛め、藩士が交際上絹服を用ひ、歳始に萬歳を舞はしめ、祝儀に盲人を聘して琴・三味線を奏せしめ、職務の妨害とならざる範圍に於いて殺生を爲し、又は碁・將棊を弄することを許しゝのみならず、藏人が職を踰えて政務に容喙せるを咎め、翌八年三月二日馬廻頭の職を褫ひて逼塞せしめたりき。