是より後ち年寄等益藏人の與黨を芟除するに努め、定番頭岩田内藏助盛照が、家老山崎庄兵衞範古・馬廻頭山本中務守令・坂井小右衞門克任の才能大に用ふべきものあるを献言せし際、彼等が皆藏人の説を奉ずるものなるを以て、九年六月内藏助を屏居せしめ、庄兵衞等三人に命じて致仕を講はしめ、又之と前後して組頭笠間九兵衞定懋・杉野善三郎盟、宗門奉行太田小又助盛一、算用場奉行神田吉左衞門保益等陸續その職を免ぜられき。而して藏人は屏居中復時事に容喙するを得ざりしといへども、尚同志と文書を往復して窃に論議を試みしのみならず、所説儕輩を抽きて肯綮に當りしを以て、藩士のこれに耳を傾くるもの多く、天保元年七月藏人が逼塞を解かれたる後に至りては、家老成瀬掃部・中川八郎右衞門、公事場奉行前田式部・奧野主馬佐、算用場奉行篠原監物・原五郎左衞門・有賀甚六郎・石黒宇兵衞、盜賊改方奉行前田主馬・澤田義門等、藩政の要樞に居るもの皆歩調を一にして年寄の爲す所を喜ばざりき。この時年寄長甲斐守連愛及び前田土佐守直時既に卒し、木多播磨守政和・前田美作守孝本・長又三郎連弘等これに代りしが、皆禍根の速かに斷たざるべからざるを思ひ、奧村丹後守榮實の手腕に依頼して難局の展開を謀らんとせり。 奧村榮實は河内守尚寛の第四子なり。通稱は義十郎、後に助右衞門と改め、止齋と號す。文化元年齡甫めて十三にして父の後を襲ぎ、三年年寄席の見習を命ぜらる。文政元年八月榮實事を以て齊廣の譴を得、月番加判以下一切の職務を解き謁見を禁ぜられしが、後謁見のみはこれを免さるゝことゝなり、三年伊豫守に任じ、七年改めて丹後守といへり。この年齊廣卒したるを以て藩侯齊泰政を親らしたりしが、齊泰は深く榮實を信じ、屢人を介してその意見を徴したりしかば、榮實の言動自ら藩論の指南たるに至れり。天保五年齊泰又國用足らざるを以て冗員を陶汰せんとの意ありしに、老臣奧村惇叙は旨を承けて得失を榮實に謀り、九月朔日榮實は書を以て應へ奉れり。曰く、凡そ政事に根幹あり、枝葉あり。その枝葉をして繁茂せしめんと欲せば、宜しく先づ根幹を培養せざるべからず。而して所謂政事の根幹とは即ち人君の一心にして、之を政綱の上に就きて言はゞ賢才を進めて無能を退くるに存す。然るに今徒らに冗員を陶汰するに急にして、賢才と無能とを擇ばずんば、或は賢才の去りて無能の止る患なしとせず。苟も根幹にして確立し、先後輕重の度を誤らずんば、その勢必ず我の期する所に赴かざるを得ず。苟も根幹を定めずして冗員を減ぜんとせば、偶奸邪をしてその名を陶汰に假りて己に不利なるものを擯斥し、その黨與を諸局に配置して惡計を逞しくするを得しめんのみ。若し夫單に吏の數を減ずるを目的とせず、賢才を進め無能を退くるを旨とせば、特に財用を節するの要を得るのみならず、又以て良政を布くの基たるべし。而して如今之を斷行するは實に千載の一時にして、好機決して失ふべきにあらざるなりといへり。是等榮實の所見は頗る時人の重んずる所となりしかば、今や年寄等は公然榮實を擧げて自家の勢力を加へ、以て藏人の一味に大打撃を加へんと欲したりしに、齊泰も亦その意を容れ、天保七年榮實に優旨を傳へて月番加判の職を授けんとせり。榮實辭して曰く、臣は先侯の重譴を蒙りしものなり。然るに今先侯の在らざるに及びて忽ち要路を汚すが如きは、衷心甚だ安きを得る能はざる所なりと。齊泰連りに之を慰藉し、遂に親ら先侯の廟を拜してその罪を宥さんことを乞はんといふに至れり。榮實大に恐懼し、乃ち日々政廳に出でゝ樞機に參與するも、月番加判の職に至りては固く之を辭せんと請ひ、遂に齊泰の同意を得たり。爾後天保十四年八月榮實の卒するに至るまで、藩の政治は多くその畫策に出づ。 奧村榮實詠草金澤市黒本植氏藏 奥村栄實詠草