藩が諸士より徴發する借知も、またこの頃に至りて漸く重きを致せり。蓋し治脩の寛政元年には知行百石以上は百石に對して十石とし、六年には十五石に増したりといへども、齊廣の文化七年には知行二百石以上百石に對して五石の比率に減じ、その後更に減免したることすらなきにあらず。然るに齊泰の文政十年よりはその比率を増して、知行二百石以上は百石に十石、百五十石以上は七石、百十石以上は五石、六十石以上は二石とし、天保元年三月十一日には更に令して知行百石以下は百石に對し八石三斗二升五合、百十石以上は八石七斗七升三合を納れしめ、遞次増加して知行三千石以上の者には百石毎に十八石を徴することゝせり。加之ならず三月二十八日領内の庶民に五千貫目の用銀を五ヶ年間に上納すべき命を發したりしに、坊間當局を非難する聲囂然として起り、奸商等その物貨を鬻ぐに際し、故意に暴利を貪りて用銀の幾分を填補せんとする者あり。是に於いて用銀の上納を要せざる下層の徒も、亦之に追隨して利潤を大ならしめ、物價甚だしく騰貴して經濟界の紊亂その極に達せんとせり。然るに藩は叙上の手段を以てするも尚府庫の窮乏を救ふに足らざりしを以て、天保三年には齊泰自ら用度の半を節せんことを宣言し、且つ今年より三ヶ年間に亙り、諸臣二百石以上の秩祿を食むものは藩その半知を借り上げ、二百石以下亦俸を借ること差ありき。老臣等乃ち藩侯の内帑特に匱乏するを憂へ、四年正月十七日向後三年間諸臣の賞賜を罷めんことを請ひしに、齊泰は、賞罰は治國の權衡なるを以て、その一を廢するときは何を以てか政を爲さんやとて、遂に之を許さゞりき。 而も是より後不幸にして凶荒相繼ぎ、さらでだに困難なる財政は益困難を重ぬるの悲境に陷れり。