天保八年は前年凶歉の餘を受けて、益力を賑恤に致さゞるを得ざりき。是を以てこの年正月廿七日齊泰は有司に教を下して、領内の救荒を懈ること勿らしめ、且つ臣僚中私に賑粥を行ひたるものゝ名を具申せしめてその善行を奬勵する所あり。次いで二月十七日には、改作奉行及び郡奉行を加賀の小松、能登の田鶴濱・宇出津、越中の杉木新町・小杉・岩瀬・三日市の七所に遣り窮民を保護せしめき。因りて諸奉行に諭して曰く、今救荒の政を布かんが爲に、卿等を各所に分遣す。卿等宜しく庶民の爲に心力を盡くし、以て飢餓に陷らしむることなかるべし。凡そ事は大小となく便宜に隨ひて處決し、敢へて淹滯して機を失はしむること勿れ。惠澤をして遠近厚薄の差あらしむること勿れ。所部を巡檢して窮苦を慰撫するを怠ること勿れ。胥吏を監督して黜陟賞罰を誤ること勿れ。盜賊を寛假して人心を動搖せしむること勿れ。貯穀を有する者に諭して糶を閉づるの好あらしむること勿れ。他邦の流民を封内に入るゝこと勿れ。貧餒を救恤して道路に斃死せしむること勿れ。農民をして郷土に安住せしめ、流離逃散せしむること勿れ。國用の足らざるを慮りて賑恤を吝み、以て委託の重責に負くこと勿れと。この日齊泰又教を老臣に下して曰く、封内の民春來未だ餓死せしものあるを聞かざるは余の最も悦ぶ所なり。然れども今より麥秋に至る間尚數月の久しきものあるのみならず、麥の豐熟も亦必ずしも期し得べきにあらず。而して余は今將に江戸に覲せんとするを以て、卿等宜しく藩治の責に任じ、窮民をして菜色あらざらしめんことを要す。士人にして小祿なるものも、亦既に家政の逼迫せる時に當り、忽ち物價の騰貴に遇ひたるを以て、宜しく詳かに事情を究めて之を救濟せざるべからずと。次いで二十四日には臣僚に告げて普く意見を上らしめ、二十六日には去年以來建策せし者を慰勞し、且つ今後勉めて言議を盡くして忌憚する所なかるべきを諭し、廿七日を以て江戸に行けり。