先に天保七年老臣等の献言したる學制を修補し文教を盛にして風俗の釐革を期せんとする議は、十年に至りて實施せられ、藩の文學校なる明倫堂に督學一員・教授三員・助教五員・訓導七員・訓蒙六員・句講師十九員を置き、武學校なる經武舘にも亦督學一員を設け、職俸を増し課程・儀式等を整理せり。是に至りて諸士の子弟十五歳に達するときは必ず明倫堂に入學するを要し、在學九年を經るに非ざれば退學を許さゞるの強制法を採用せしかば、一藩向學の風勃然として起りたりき。世に天保の學制修補と稱するもの即ち是にして、前年學校總奉行に任ぜられたる奧村榮實の考定斷行せし所に係る。 次いで翌十一年三月十六日、また榮實を藩の勝手方御用兼兩御廣式御用の職に任じ、以て財政の大綱を統べしめき。是より先理財の局に當るものその人を得ず、國用常に給せざりしを以て、齊泰は榮實を召して親しくその整理を囑したりしに、榮實は、固より不才なるのみならず、殊に近年氣力衰耗したるを以て、かくの如き重任はその能く堪ふる所にあらずとして固辭したりき。然るに齊泰、斷乎として之を許さず、彼が藩の元老に居りて命を奉ぜざるの理由なきを責むるに及び、榮實は恐懼して告げて曰く、侯若し余に託するに財政の樞機に與るを以てせば、余は下を富ますを先にして上を富ますを後にせんと欲す。然らずんば三五年にして倉廩を充實するの効を奏すべからず。苟も侯にして之を聽さば、余敢へて犬馬の勞を致すべしと。齊泰之を可とし、遂にこの任命あるに至りしなり。榮實が齊泰に眷待せらるゝこと頗る大なりしを見るべし。