天保十三年四月廿二日、齊泰文教を下して士人を戒めて曰く、祖宗以來士氣振興の令屢布かれたりといへども、人皆苟合に狃れ、一時は之を奉ずるが如くにして未だ曾て久しく行はれしことあらず。先侯深く之を慨し、特に教諭局を開きて畫策する所あらんとせしが、不幸にして幾くもなく世を辭せり。當時余幼弱にして統を承け、自ら積弊を改むるの任に堪へざるを知りしが、その後未だ嘗て罪を公私に獲るの憂なくして今日に至れるもの、一に祖宗の遺徳に由らずんばあらず。是を以て益心を國政に致して守成の實を擧げんことを期せり。余は固より卿等が勳舊の家を繼ぎ、歴世の君恩に浴したるものなるを以て忠孝の道に明らかなるを知る。然れども歳月の久しき太平に狃れて、知らず識らず先侯の約束を忘れ士風漸く敗壞し、余をして遂に事を誤まらしむることなきかを恐る。余之を慮り、頃者老臣をして普く余の意を衆に傳へしめき。是の如きは卿等の夙に熟知する所なるべしといへども、之を知るは易くして行ふは難し。卿等宜しく勤儉自ら制し忠孝自ら勵まし、老成年は産を治め家を整へ、少壯者は學を習ひ技を練るべし。卿等余が命を恪守し、敢へて惰心を生ずること勿れと。この令亦榮實の献替に出づるものゝ如し。然れども榮實は翌十四年八月を以て卒したるが故に、その畫策する所未だ何等の實績を擧ぐるに至らざりき。 是より先、近藤忠之丞といふ者、山本孫三郎を斬りて父の仇を報じ、弛緩せる當時の人心を刺激する所少からざりき。忠之丞は藩の割場附足輕にして、時に三十二歳。孫三郎は馬廻組の士山本治太夫の弟にして明倫堂の講師たりしもの、時に三十六歳なり。忠之丞の父を雲田忠太夫といひ、藩士多賀豫一右衞門の同心組に屬せしが、能く財を埋めて家を富まし、遂に二千石を領する藤田平兵衞の給人となりて會計を掌り、傍ら私財を融通して利殖するを業とせり。是を以て一日孫三郎は、一士家の爲に金を忠太夫に借らんと請ひしに、忠太夫は初めこれを諾したりしも後に意を飜して約束を履行せざりき。孫三郎乃ちかの士家に對して面目を失へりとなし、天保四年十二月廿九日の夜、忠太夫が金澤市笠市町なる越中屋長兵衞の家より出づるを待ちて口論を構へ、遂に刀を拔きて之を殺しゝが、忠太夫の杖を以て士分に抵抗せりとの理由により何等罪を獲るに至らざりき。忠太夫の嫡子忠之丞は近藤氏を冐したりしが、身長五尺八寸に達して膂力勝れ、窃かに父の爲に仇を報ぜんとの志あり。因りて江戸に往きて劍を湯島天神前なる井上傳兵衞に學び、後國に歸りて關堂忠左衞門及び垣本佐五右衞門に從ひ、專らその術を練りて機の至るを待てり。孫三郎は之を知らざるにあらざりしも、己も亦武技を武藤金太郎に學びて練達の譽を得たるが故に、忠之丞にして復仇の念あらば余は潔く之と雌雄を決すべしと廣言して、毫も警戒する所あらざりき。その後忠之丞は屢孫三郎の出入を窺ひしも、未だ望を達するの機を得ざりしが、天保九年五月十三日學校の式日に當り、講者・讀師等詰旦出校する例なりしかば、忠之丞は孫三郎が宗半町の家を出でゝ高岡町に至るを認め、追跡して相鬪ひ、遂に敵を殪して首級を得、去りて堀川智覺寺なる亡父の墓所を拜し、遂に遠く出奔せり。或はいふ、忠之丞復仇の日木源及び佐賢といふ者あり。佐賢は笠を被りて初より孫三郎に追隨し、餌指に扮したる木源は孫三郎の高岡町に來るときこれを支路に待ちたる忠之丞に報ぜり。忠之丞乃ち出でゝ孫三郎と鬪ひ、先づその鬢を斫りしが、孫三郎も能く劍を揮ひて忠之丞の腕に傷つけ、動もすれば却りて危殆に陷らしめんとせり。佐賢困りて之を援け、孫三郎の右手栂指を斬る。是を以て忠之丞は遂に本望を達するを得、智覺寺に詣でたる後淺野川を渉り、大樋町に至りて叔父竹屋六兵衞の扶助により衣服を改め、二俣往來より飛騨に出で、遂に江戸の師井上傳兵衞の庇保を得て生計を營めりと。この説は、忠之丞の師垣木佐五右衞門の口授を筆記せるものなりといへば最も信ずるに足るべく、その文中に佐賢とあるは即ち佐五右衞門賢英にして、木源は鈴木信左衞門永固とし、源とは彼の初名なるが如し。永固また後に諱を行と改む。實は關堂忠左衞門の子にして鈴木氏を嗣ぎ、能く劍法に通ぜり。城外野田山なる彼の墓碑に、『嘗有父爲人所殺者。先生説以大義。其人感激遂復其仇。』といへるは、忠之丞を幇助したるをいふなり。然るに當時の記録、皆忠之丞が單獨孫三郎を討ちたる如く傳ふるものは、禍の幇助者に及ばんことを恐れて公然之を發表するを憚りたればなり。且つ世人忠之丞の義烈を擧げて安永の赤尾本平と並べ稱したるは、復仇の稀なりし加賀藩に於いて當然のことなりといへども、彼等をしてこゝに至らしめし理由の共に金錢問題より端を發したる點より考ふれば、亦頗る時代の臭氣を帶びたるものといふべきなり。 一、五月十三日(天保九年)の學校式日、講者・講師其外懸り之面々朝五ツ時不殘出勤可仕候故、孫三郎書物を風呂敷に包懷中致、宅を出候時は澤田主馬殿子息孝作殿同道にて長町通り被參候處、淺香伊織殿子息相誘ひ申に付孝作殿は淺香へ被立寄候。仍而孫三郎一足御先へ參ると挨拶致、長町通りより内匠(前田直良)樣横、有賀寛兵衞殿前口より淺井主膳殿前、高岡町行懸り候所、跡より丈高き男殺生羽織を著したる士、申し〱と聲を掛候へども、聞ぬ振にて足早に小堀牛右衞門殿前へ被指懸候に付、今半町許りも行過候へば、南町之本通りにて往來も多有之候へば、出合場所も不宜と存候や右之男走り付、小堀殿門前にて孫三郎の前へ廻り、御覺悟あれと聲を懸候所、何推參と一言の返答にて、片股立取や否や直に柄に手を懸候。忠之丞は兼而股立は敢て居る。直に双方拔合せ、初太刀二太刀の取合は慥に見受候者も有之由、風聞區々。追而檢使立合之上、刀疵打疵詮議之所に而樣子顯然に御座候。何分年來之本望達し、敵之首打落し、小堀殿屋敷前溝の流に而首を洗、懷中より風呂敷を出し首を包み、刀の血を拭ひ鞘に納め、左も勇敷面体にて小堀殿門番へ、御門前を取あらし候段宜敷被仰上被下候樣にと挨拶申入候へば、門番はがち〱と振ひ居、返事も不致樣子。夫より直に長町通り堀川智覺寺へ參り、實父の墓所へ首を手向、跡より追手居候哉と門前へ出四方を見廻し、又々本堂へ參詣致、夫より淺野川を越、自宅へ立寄實母に暇乞、其節旅裝束取出し、直に町端大樋口小橋の脇道大山之社前にて袴を拔、裾に血の付候浴衣を拔、宅より持參之單物を著替、袴の紐をちぎり手首の薄疵をからげ、夫より直に二俣越之間道へ逃去候。忠之丞智覺寺にて申聞候は、直に身當りの頭へ斷公事場へ出ると申居候に付、大樋口より二俣越へ罷越候儀は誰も不氣付事に候。時移候而拔捨之袴等見受候に付、扨は逃去候と皆々申居候。 一、往來之諸人首無死骸之側に群集仕候へども、誰とも不慥成。乍併著物等之紋所片喰(カタバミ)故、大方孫三郎にて可有と風聞之次第山本氏へ相聞え候故、甥平左衞門殿拔身之鎗を逆手に下げ、非常之定法息を切で駈付候へ共、最早近邊之屋敷より簾圍に致し懸り候時分なれば、相手之行方は不知、死骸之側に鑓を置、殘念至極と落涙被致候。續而兄次太夫殿、無袴追取刀にて駈付候へ共右同樣。其内誰となく首は堀川の智覺寺へ持參致候旨風聞に付、山本之兩人駈付候段を小堀殿へ申入、夫より兩人共宅へ立寄、親類等同道に而則智覺寺へ參り候へども、孫三郎首墓へ備へ有計りにて相手は居合不申。夫より淺野町忠之丞宅へ被參候所、老母・下女計りにて、忠之丞は今朝他出致し未歸り不申、行先も不知と申事故、此度弟を討果し候とも不被申、すご〱と歸宅被致候。町方一統之風聞につき、喧嘩追懸物役近藤新左衞門殿・富永左膳殿、割場組下足輕六十人小頭三人召連、高岡町へ早馬にて出張、近邊之諸屋鋪は、御家來衆二人宛火事裝束にて棒を持自分門下張番、下は淺井屋敷角、向は内匠樣辻番所、上は三郎兵衞殿後角迄割場足輕警固にて往來留、近藤・富永兩人は挾箱に腰を懸、足輕中へ萬事下知有之躰。死骸には毛氈を爲懸、前後は簾圍にて、内に屏風計建、外には幕を張、御檢使見分相濟候迄無用之見物を不許。尤拔身之鑓早馬等往來之騷ぎに付、萬事之氣配り近年未曾有の大變也。且又町家之者男女等、若喧嘩場所混雜に而も仕出し可申候哉と、町奉行御兩人並同心兩人南町有松屋吉郎兵衞方へ御出張、組下足輕中敷十人被召連候。是は高岡町は武士屋舖而已に候へ共、南町通筋は御支配之事故、此節往來見物人夥敷、此上又々如何成珍事も出來候哉と、町家混雜之儀も可有之哉之氣配りに而辻堅めの爲出張と申事に候。 〔近藤忠之丞敵討始末〕 ○ 天保九年五月十三日早朝、佐賢稽古所に參り拜神の所(忠之丞)、自然に扉開、共に不審に存候。望成就の奇瑞か。夫より高岡町小堀牛右衞門門前に而本望達候節、佐賢、山本相角(アヒカド)小幡門前に忍び、孫三郎のあとを伺ひ、宗叔町より堀端通、長殿前へ掛りし所、孫三郎立止り佐賢の笠の内を見込。其とき佐賢、孫三郎を越え先へ川、長殿御成御門邊まで行候處、孫三郎有賀前へ上り候に付引返し後を伺ひ、高岡町篠井屏重門之邊へ行し處、又々笠の内を見込無言に而拔付候に付(二尺三寸ばかり)、佐賢粗忽被成間敷と二度聲掛候處、何の返答もなく、拔身を提げながら兩股立を取り進み候處、今枝殿の方より木源餌指躰に而指掉を持、孫三郎を見て引込候躰を、孫三郎乍見次第に進行、最早小堀門前六七間計り進處、木源相圖之躰に而忠之丞拔身引提(貳尺六寸)、今枝方より罷出、互に無言に而進寄り、小堀長屋腰に而兩斷流し、孫三郎諸手冠り上段に而忠之丞眞向へ打込處を、忠之丞身を振換りざまに、片手にて孫三郎右小鬢剥ぎ落。夫より互に青眼に打結び、細かに數本打合内、忠之丞右の腕肱の邊を三寸計り切られ候に付、佐賢片手に而刀を引提げ(水田住國重壹尺八寸)、ゑいとうの聲を發し片手に而孫三郎に切込候處、二の腕かけて切込候處、彼の鍔を切、大指を切落し、追續忠之丞たゝみ車ねて切込處、孫三郎頭上へ刀を斜に諸手にて上げ、請太刀に相成候内、右の肩口へ四寸計り切先下りに切込まれ候處太刀を落し、其儘左手に而脇指の柄に手を掛け、五六寸計り拔掛候儘に而、(肩口よりの出血如瀧、七八尺の間隔て伊藤土屏へ差せ懸りし。其時佐賢も血をかぶりし。)前の方へ下向けに倒れし處、忠之丞大聲にしてやつたりと云ひ、直に去らんとする時、佐賢首を取れと二三聲掛し處、横へ振向き五六刀打込推切り、首を取り風呂敷に包、手拭に而腕を卷き、前田殿門前へ去る。佐賢刀を孫三郎袴にてぬぐひ鞘へ收め、夫より孫三郎身形りを直し、袴を裙へ引下げ、今枝方より立去り歸宿す。忠之丞は夫より藪の内通り、圖書橋高へ掛る處、孫三郎兄次太夫(治)並せがれ拔身の鎗を持ち、忠之丞を見掛ながら突掛り不得見脱がし候處、臆病の躰に見え申候。忠之丞夫より菊池横、藪の内通り、生栖の小路、表具屋小路を通り、末寺前に出で堀川端智覺寺父の墓へ首を備へ、夫より垣を越え淺野川を渡り、田圃通り大樋宮へ至り、叔父竹屋六兵衞兼而手配之通り、指替大小並着替菰に認め待受、此に而衣服等改め、二又越に而飛騨通り江戸へ行き、先師井上傳兵衞方をたより被抱罷在候。 〔垣本佐五右衞門口授筆記〕 ○ 天保九年戌五月十三日朝五時山木孫三郎を近藤忠之丞討申に付、珍らしき事に候。 能興行 近藤はすつかり男は翁 近藤の弟はなんにも千歳 小堀は白山へ三 番 三 次太夫(治)は世上へ面箱 孫三郎は初太刀に重手を老松 こは叶はじ何と正尊 とてものがれぬば せ を 侍は油斷のならぬ芦苅 とうどかたきをと ほ る 祝言、智覺寺の蘭塔嵐山 狂言 親の墓所へ首を末廣 近藤は其勢で淺の川とん太郎 檢使の御役人は夫々くるやき 以上 〔帒珍録〕 近藤忠之丞敵討之次第一枚刷滋賀縣中神利人氏藏 近藤忠之丞敵討之次第一枚刷