作之丞の學説を奉ずるものゝ中、その地位の最も高かりしを長連弘となす。連弘は幼名を音吉と稱し、長じて又三郎・將之佐又は九郎左衞門といへり。實は本多安房守政禮の次子なりしが、文政十一年長甲斐守連愛に養はれ、尋いで連愛の後を襲ぎて藩の年寄職に任ぜられ、人持組頭・勝手方主附を兼務せり。天保中連弘、作之丞の議論を實地に試みんとするの意ありしが、奧村榮實は之を當世に害ありとなし、門前虎を逐へば後門狼至ると慨歎ぜり。蓋し寺島藏人を猛虎とし、作之丞を戻狼に比したるなり。當時藩侯齊泰最も榮實を信任し、言ふ所行はれざるなかりしを以て、連弘は復如何ともする能はざりしが、天保十四年榮實の卒するに及び、漸くその意見を廟堂に施すことを得、弘化・嘉永の間に亙りて、割場奉行關澤安左衞門房清・算用場奉行水原清五郎保延・勝手方近藤兵作信行等同志數十人と相謀り、財政を整理し宿弊を芟除し、冗員を陶汰し贅費を省略せしかば、その政績頗る見るべきものありき。 この頃連弘等公務の餘暇相會して事を議する時は、皆兼房染の羽織を着するを常とせり。是を以て時人彼等の一派を稱して黒羽織黨といひ、而して黒羽織黨の爲す所往々にして奇矯に亙るものありしかば、之を嫌厭するもの漸く非難の聲を放つに至りたりき。或は曰く、黒羽織とは河豚の異名にして、他を毒せずんば止まざるの意なりと。蓋し作之丞自身をして言はしむるときは、據遊舘の從學者が藩校明倫堂の生徒よりも多數にして、人材亦輩出したりしを以て當路の藩吏之を嫉視したると、天保凶荒の際その徒に窮民を救濟したるものありて、吏務の權限を侵犯したる嫌ありしとにより、遂に排擠せらるゝに至りたるなりと主張すれども、黒羽織黨の所爲も亦全く中庸を維持すること能はず、故らに新奇を欲して常軌を逸し、儉約の爲と稱して舊規を破壞することありたりしなり。然りといへども、この間英米の船舶來航の事ありたる時、作之丞は嘉永三年九州に遊びて天下の形勢を探り、連弘亦六年九月以降藩の海岸防備の任に當りて盡力する所多かりし如きは、太平の惰眠を貪るものゝ多き中に在りて、その行動一頭地を抽けるを見るべく、之を要するに黒羽織黨の藩政に於ける功罪は相半したるものといふべかりしなり。 嘉永二年頃より、長殿等を黒羽織黨と稱し、其徒數十人新法を行ひ、下々難儀仕候に付、何人か仕たりけん。 出られたり出られたり、何が出られたり、黒羽織が出られたり。黒羽織といふ人は、天上天の人なるが、こゝらあたりの人でなし。天に三十三人あり、足早に廻られたり。一に犬共召遣ひ、二に似合ひの役を立、三にさま〲仕法立、四に下々困窮し、五に御荷物賃なしに、江戸の屋敷へやられたり、火消の扶持米減さうとした。六つ厩の豆をしみ、七つ何やら長詮議、八つ役人穴さがし、九つ乞食を出さうとした(非人小屋改革)、十で所の海邊(宮腰}]に、大きな雷落された。よい加減にしておかれ、あげくに鋤鍬騷がさう。十文錢(長の錢九曜と水原の蛇ノ目)にさわぐとて、他國評判ぐわら〱と、損はこなたにどつさり。 なの葉 黒いといふことは、たが初めけん、外の七手は(七手組)うはの空。黒さままゐりて、しめす心の仇なさよ。上々さまの御勝手も、別にかはらぬ御省略。思ひまはせば御慈悲もなうて、役所々々の下役いため、それにつゞいて世間をつめて、御かね溜めようと思ふなら、何でもさらせ長のあほ。 〔黒羽織之節童謠〕