是より先、黒羽織黨の首領たる長連弘は安政四年四月を以て卒したりしが、その餘黨漸く蘇息して、文久二年水原保延の算用場奉行に登庸せられ、翌年關澤房清・近藤信行等の概ね舊職に復するに及び、再び政界に於ける勢力を掌握するに至れり。これ當時國事益多端にして、この徒の材幹手腕に待つこと急なるものありしが爲にして、彼等も亦一致協力して藩政の改革を計り、殊に産物方の如き最も有益なる施設を試みたりき。産物方の目的は、藩内の産業を奬勵し、上下の福利を増進せんとするに在りて、加賀にては金澤・小松、能登にては羽咋、越中にては福野・高岡・魚津等の各地に産物集會所を置き、集會所の下に若干の支局を設け、その地の商事に熟練するもの數人を擧げて事務員とし、工商を督勵して製産に努力せしめ、資金を貸與し、製品を買上げ、販路を擴張し、品質を檢査し、收益の少きものは保護し、利得の多きものに課税せしものにして、文久三年初めて開設し、翌年に至りて規模大に整ひしかば、遂に帆船啓明丸を購入して漕運の用に充て、獨封内物産の振興を見たるのみならず、府庫亦從つて收入の増加を見るを得たり。