上田作之丞に從遊して藩政の釐革を謀り、所謂黒羽織黨を以て呼ばれしもの數十人を算すべしといへども、首領長連弘の外に最も頭角を露はしたるは、水原保延・關澤房清・近藤信行の三人なりしこと、既に之を言へるが如し。今こゝにその小傳を擧ぐ。 水原保延は通稱を清五郎といひ、後に清幽と號せり。實は人持組の士品川主膳の三子なりしが、文化八年出でゝ馬廻組水原孫太夫の嗣となり、翌年その家を承け祿九百五十石を食めり。十三年保延大小將組に編せられ、文政七年明倫堂讀師となり、弘化三年馬廻組頭に進み、金澤町奉行を兼ね、四年町奉行を罷めて算用場奉行に轉じ、年寄長連弘の改革に從ひし時、保延また之を輔けて財政整理の任に當りしが、安政元年黒羽織黨の失脚に際して職を罷めらる。然るに三年に至りて又馬廻頭に復し、五年明倫堂督學に補せられ、萬延元年には富山藩の爲に財政整理の任に當り、文久二年歸藩して算用場奉行に復するに及び、勢力實に隆々たるものあり。即ち翌年藩の爲に産物方を新設し、慶應四年四月退老の時に及ぶ。藩侯慶寧その功を賞し、特に二百石を賜ひて養老の資となさしめき。