關澤房清は通稱を六左衞門といひしが、後に安左衞門と改め、老を告げたる後遯翁と號せり。天保元年家を襲ぎ、馬廻頭に班し、祿二百五十石を受く。七年藩内大に飢ゑし時、自ら資を投じて賑恤せし所多し。既にして石川郡本吉港の裁許となりしが、恰も凶歳の後を受け、民力の疲弊甚だしかりしかば、房清は勸めて甘藷を植ゑしめき。本吉附近に甘藷あることこゝに始るといふ。十一年房清、議容れられざるを以て職を辭せしが、弘化四年割場奉行に補せられ、年寄長連弘を輔けて舊弊を釐革し、嘉永六年には小松馬廻番頭に轉じ、町奉行を兼ね、次いで安政元年譴を蒙りて職を免ぜられき。房清乃ち屏屈して養蠶の事に從ひしに、先に凶荒の際救恤せられたる者、墻壁の外より桑葉蔬菜を投入して恩に報ぜり。五年房清又事によりて重譴を蒙り逼塞を命ぜられしが、文久三年宥され、能登に移りて在番となり、元治元年京師に役せし時恰も蛤御門の事變に會し、禁闕の守備に任じて功ありき。これを以て班頭並に進み、復割場奉行を兼ぬ。明治元年伏見・鳥羽の變に房清適京師に在りしが、前田孝錫の命によりて變報を藩に致し、北越の役には藩の監軍となりて又功あり。後越後府民政局に出仕し、權判事に任ぜられ、晩年東京に住し、明治十一年七月八月七十一歳を以て歿せり。房清人と爲り、眞摯にして硬直、常に國事を憂へ、士氣を振作することを怠らず。横井小楠嘗て房清を見て曰く、我北陸に於いて一知己を得たりと。佐久間象山も亦之と親善なりき。 近藤信行は通稱兵作、本組與力近藤瀬左衞門の嗣子なり。弘化四年父の後を襲ぎ、祿百八十石を食み、頭並に班し、勝手方に補せらる。信行最も財務に通ずるを以て計畫する所多く、嘉永五年藩侯齊泰の財政改革に關する意見を徴するや、信行は農民の雜税を輕減し、士庶の奢侈を矯正し、廳内の冗費を省略し、武備を充實し、物産を振興し、學政を修補すべきを條陳せり。安政元年長連弘の罷められしとき、信行も亦黜けられしが、文久三年再び頭並に復し、慶應二年十月その子岩五郎信成のことに因つて祿百石を増し、明治三年九月に至り退老せり。後名を翁と改め、六年十一月十一日歿す。岩五郎信成は蘭語を學ぶが爲長崎に留學し、薩藩の士石神良平の加賀藩の名を辱しめたるを怒り、之を斬殺して後自刄したるものなり。