黒羽織黨が藩の内政に關して大に論議したりしとき、對外的には外寇の警報荐りに達せしかば、人心漸く恟々たるものあり、遂に延きて攘夷論の勃興となり、海岸防備の實行となれり。今少しく遡りて之を叙せんに、外寇の警報が初めて藩民の心膽を寒からしめたるは、文化四年四月魯人が蝦夷の地を侵せるときに在りて、六月幕府は加賀藩の所領能登の地遠く海中に斗出するを以て、或は外船の來るなきを保せずとなし、命じて之に備ふる所あらしめき。是に於いて藩侯齊廣は、馬廻頭青木與右衞門・中川平膳二人を將とし、馬廻壹番組及び貳番組を編成し、萬一の異變に處する所あらしめんとせしに、この時文治既に久しく士氣頗る弛緩したりしを以て、僕隸の徒に至りては或は出陣の命あらんことを恐れ、病と稱して仕を辭し郷里に歸るものすらあり。青木與右衞門も亦任に適せざりしが如く、藩は同月廿八日之を免じ、金森量之助をして代りて筆頭たらしめき。然るに量之助は祿千七百石を受くるものなりしも、性怯懦にして命を拜せし後快々樂しまず、遂に自刄してその祀を斷つに至れり。是を以て平膳獨事に當りしが、翌五年三月齊廣の國に就くに及び、若し外寇の事起らば機に臨みて親ら事を處すべしとなし、九月常備の警戒を解けり。 異國船松前邊え渡來、能州浦海上程近き躰に付、自然渡來の体に候はゞ御固めに可被指出候條、内調理致候樣被仰聞候。 六月(文化四年) 付札青木與右衞門・中川平膳え 今般御手當之儀、御定も可有之候得共、先は在人高を以可成丈相辨、餘は其節に臨み、割場雇等の心得にて相調理可被串候事。 丁卯六月御用番奧村左京 〔齊廣御傳略等抄〕 ○ 御馬廻頭中川平膳え 去年御手當内調理被仰渡候砌より、何茂格別相進被罷在候。今般別紙の通被仰出候。不及申候得共、以來無油斷相心得罷在候樣可申渡旨、御用番助右衞門(奧村榮實)殿被仰聞候事。 異國船御手當内調理有之樣去夏申渡候に付、各初組中にも人馬を張罷在候ゆへ、小身之人々えは去冬より馬飼料も被下候得共、當年者御在國之事、臨時御下知可有之候間、去冬指掛り内調理被仰付候分先被指止候。内調理不被仰付以前之通相心得候樣、可申渡旨被仰渡候事。 九月(文化五年) 〔齊廣御傳略等抄〕