爾後藩は益その施設を怠らず、嘉永六年三月十八日には齊泰金澤附近の海岸を巡視し、四月四日には又能登歴遊の途に就き、二十五日に至りて歸城せり。かくの如く藩が意を海防の事に注ぎし際、六月突如として亞米利加提督ペルリの浦賀に入りたる報に接したりしを以て、直に沿海各地の戍兵を定め、次いで七月朔日幕府は、亞米利加が我に致しゝ書を諸侯に示して各意見を言はしめしが、この時齊泰金澤に在りしを以て、八月四日に至りて答申する所ありき。その書に曰く、今次亞米利加が我に與へたる書中に陳ぶる所の如きは、敢へて非理を以て我に強ふるものと言ふ可からず。されば我より妄に暴擧を加へて禍源を開くべきにあらず。明年彼の再び來りて回報を得んと欲するの日、宜しく禮を以て之を待つべきなり。抑我が國の支那・和蘭以外と交易するは幕府祖宗の禁ぜし所なるのみならず、若し一たび亞米利加に對して寛假する所あらば、諸蕃亦爭ひて之に倣はんとするや必せり。然れば策を討伐に決して、直に貿易を拒絶するの勝れるに若かざるが如くなれども、武人偸安輭弱の弊今日に於いて極れるを以て、我にして卒然攘夷に從はんとするも、到底成功を萬一に期すること難きに似たり。是を以て今は則ち轡を緩くして之を駕御し、而して徐に海防を嚴にし、士氣を鼓舞し、武備全く充實するを待ちて我が爲さんと欲する所初めて爲すを得べきなりと。次いで八月十五日世子慶寧も亦書を上りて、その見る所父侯に同じといへり。是を以て之を觀れば、加賀藩の主張は一時親交を假裝せんとするに在りたりしなり。齊泰次いで九月三日能登及び越中の沿岸に戍兵を配置し、十月六日には老臣本多周防守政通を越中に派して濱海の地を踏査せしめ、十一月始めて藩内に西洋大炮を鑄造し、十二月銃炮鑄造場を郊外河北郡鈴見村に設置し、その所謂武備充實の方針に添はんことを勉めたりき。 今般亞墨利加書翰之趣に付、御書付兩通並書翰和解二册被渡下、今度之儀は御國家之御一大事に付、利害得失厚思慮仕、假令忌諱に觸候事に而茂不苦、見込之趣十分に可申上旨、重き被仰渡謹而奉得其意候。不肖之私儀、得失利害等何分辨兼申候。乍去存寄不申候儀も却而奉恐入候間、聊心底奉申上候。亞墨利加書翰披見仕候處全く會得茂致兼、實情之處者如何共難察候得共、先書翰之面に而者敢而無理成筋共相聞不申候間、此方より無躰に打拂等に相成候而者、暴成御仕向に茂相當可申哉。且者禍を引出候基とも奉存候に付、重而渡來に候はゞ先穩に御取扱可然哉。支那・和蘭之外者交易御嚴重なる事は從御先代之御掟、此度亞墨利加人御取扱緩に御座候時は、〓咭唎等之諸蠻國よりも追々難題可申出茂難計候得者、只今之處に而者嚴敷御打拂之御處置當然にも可有御座候得共、久敷太平に浴し候人心、當時之時勢海内一致に相成打拂抔与申儀も無覺束奉存候。差當候而者先寛宥の御取扱被成置、其内に諸國海岸等之御手當、武備嚴重士風御引立實備相整候上に而者、彼の模樣次第如何にも神武之勇氣を御示可有御座儀歟与奉存候。右等之趣不顧憚愚意奉申上候。此上者乍恐上之御明斷に可被爲在御儀と奉存候。以上。 八月四日(嘉永六年)松平加賀守(齊泰) 〔御親翰帳〕 ○ 今般亞美理駕書翰之趣に付、御書付兩通並書翰和解二册被渡下、此度之儀者御國家之御一大事に有之、實に不容易筋に候間、得与遂熟覽、存寄之品も有之候はゞ、假令忌諱に觸候而茂不苦候間、聊心底を不殘十分に可申上旨、被仰渡之趣謹而奉得其意候。誠に御國家之御一大事、若年之私一存を以、存寄之趣申上儀も仕兼、同氏加賀守(齊泰)了簡茂可有御座儀、旁以示談に茂及候而了簡承り候處、私熟考罷在候處も同樣之趣に御座候に付、別立而可申上儀無御座候。全く加賀守同存御座候間、此段奉申上候。以上。 八月十五日(嘉永六年)松平筑前守(慶寧) 〔御親翰帳〕