翌安政元年正月十三日亞米利加の軍艦は相州浦賀に來りて、前年の回答を得んとせり。是に於いて將軍家定は、十六日を以て諸藩に命じて江戸近海を戍らしめしに、加賀藩は品川及び御殿場に兵を配置し、十九日芝浦に轉じ、廿八日村縫殿右衞門陳正に命じて兵五百五十餘人を率ゐ芝増上寺に屯せしめ、二月十五日山崎小右衞門籍知の隊をして陳正に代らしめしが、廿八日江戸の戒嚴を解きたるを以て、籍知も亦罷め歸れり。齊泰次いで三月十三日奧村助右衞門榮通を遣はして能登の沿海を巡視せしめ、又四月十三日江戸よりの歸途、越中魚津に於いて自ら戍兵の演武を閲せり。この月又領民の異國船を認めて注進するものあるとき、宿驛をして特に利便を與へしめんが爲、豫め飛脚札を海岸諸村に頒てり。 定 一、食事之事一、草鞋之事一、指□(當)り雨降之節雨具之事 一、月無之夜提灯之事一、足痛に而難致歩行節人足等之事 嘉永七年(安政元年)四月御郡所 異國(裏)船注進飛脚石川郡倉部村渡り 〔石川郡旭村倉部區有〕 同年八月藩は横山外記隆淑を遣りて能登の海洋を戍らしめ、又西洋陣法を演ぜしむるが爲金澤に壯猶舘を開けり。壯猶舘は、もと西洋流火術方役所といひしものゝ規模を擴張したるものなるが、後その完備するに及び軍艦奉行・筒奉行・彈藥奉行・横目及び教師等數十員を置き、銃炮繰練の外航海・測量・馬術・洋書購讀・西洋醫學等をも研究するに至れり。 齊泰又九月廿五日自ら鈴見村の銃炮鑄造場・上清水村の焰硝庫を巡視して、軍備の充實と士氣の振興とを計りしが、幾くもなく安政二年四日十四日加能の領海を航行する一異船を認むるに及び、益外國に對して注意を怠るべからざるを痛感したりき。この船は、同日拂曉大聖寺藩領の沖合に現れ、宮腰の海岸を經て漸く北方に影を沒し去りたるものにして、その國籍の果して何れに屬するかを知ること難かりしも、藩は同月二十二日之に關する事情を幕府の大目付柳生播磨守に申告する所ありき。 支配所宮腰沖合、今朝五半時頃異船躰之物相見へ候旨及注進候付、不取敢嘉門儀出投仕見分候得共〓去、帆蔭等何等も相見へ不申に付段々聞糺候處、宮腰より一里許沖合に而懸り居候越前三國小帳屋平次郎沖船頭小三郎船より、又候壹里許沖の方を異船壹艘〓通候を見受候處、船總廻り色黒く相見候。檣三本に而帆三枚張有之、壹枚幅十五尋許も有之。表之方に風袋と歟申者に候哉色白き者相見へ、其内人壹人帆桁の端に縊付居申候。所作抦等至而早き仕形之樣に相見へ、人躰等遠見之事故爾と不相分、北之方を指し〓行候旨、右沖船頭小三郎申聞候外相替儀も無御座候付、只今嘉門引取申候。依而此段御達申上候。以上。 卯四月十四日(安政二年)齋藤與兵衞(宮腰奉桁) 淺香嘉門 横山大膳(隆貴)樣 〔都鄙の嵐〕 ○ 去十四日晝四時頃、加賀守(齊泰)領分加州石川郡宮腰沖合え異國船壹艘相見え候旨、漁民共より所方役人へ及注進候に付早速遂見分候處、地方より凡三里許沖合に相當り、船長三十間許、檣三本、船廻色黒く相見へ、南の方より北の方へ直樣〓去、船印難見譯旨、右役人共より金澤表え及注進候。猶又見分之方之儀嚴重申渡候旨、急便を以申越候。右之趣海防御懸り久世大和守樣へ御屆仕候付、此段御屆申上候。以上。 松平加賀守内 四月廿二日(安政二年)姊崎石之助 柳生播磨守樣 〔公私日記〕