安政四年八月岡田助右衞門之式は、藩の海防を完全ならしむるが爲軍艦を作るの必要あることを建議せり。葢し加賀藩が稍海軍を設置せんとの意志を有したるは、安政元年江戸の懸津屋權七をして軍艦の模型を造らしめ、七月藩に齎して齊泰の觀覽に供したるに始りしも、その費用巨額に達するを以て未だ之を建造するの機運に達ぜざりき。然るに之式は江戸に祗役して時勢の變遷に稽へ、軍艦が啻に變亂に際して必要缺く可からざるのみならず、平時に於いてもまた運輸に利用して鴻益あるを知り、遂にこの建議あるに至りしなりといふ。而して藩が軍艦を有することはこの後尚急に行はるゝを見ざりしも、費用の多きを要せざる施設にありては着々進捗整備を告げ、安政六年五月十五日には藩士篠原久太の部下數十人が能く火技に習熟して百發百中なるを賞し、また萬延元年正月には江戸の郊外平尾の藩邸に大炮二十門の鑄造を試みて成功を見たり。 軍艦製造之儀は、富國強兵之第一之由にて、當時薩州家は申すに不及、仙臺侯抔にも十六艘も製造可有之由。小藩にては越前大野にも製造之催御座候樣子。右軍艦之儀は、先年被仰出も御座候御由粗奉承知候處、其頃いづれの向より歟、諸士之困窮御國民御撫育方の御所置方等を以申上候向も御座候哉に而、御指延に相成申樣にも風聞仕候。乍恐軍艦御取建も、則御國民御撫育之御一事に而、海運之利は皇國上世よりも有之事之由、當分最第一無御座而は相成申間敷品歟と存上候。第一連年御廻米拂米等を初め、難破船の憂も無御座、御財用之權下方へ移不申、御國産莫大之品物、他國商賣之乎に落入不申候に付、悉御國内之豐饒に相成可申、其外江戸御屋敷内之諸品、鹽菜に至り候迄も、悉皆運送に而御事足可申候。異變之節は、一艘の軍艦、陸地數萬人之疲弊奔走に代り可申。都而海運之利方は、既に松代佐久間修理曁羽倉外記、水藩會澤恒藏抔之有名之士、往々論説仕候通に御座候而、治亂共必要之品之由に御座候。然處差當り一艘にも巨萬之入用相懸候事ゆへ、時勢に通曉いたし不申人々は、見留も有之間敷に付、軍艦製造と申候而は驚恐れ候迄にて、遠大之見込無御座ては思召も恐察仕、乍如何出來仕候場合へは至り申間敷哉に存上候。御大國之御事に御座候得者、二艘や三艘之軍艦は、御府庫金御指出無御座共、不年に出來可致哉と存上候。併當時御役所向之詮議方抔にては、左樣之儀は中々以て出來申間敷候。若重而軍艦製造之御詮議も候はゞ、先第一に御國躰に心力を用、後年之事情を觀察いたし、少しく經濟に心得有之人を御選擧御座候而、御委任無御座而は、決而出來は仕申間敷哉と存上候。此等も先達而御僉議可有御座之御一事歟と奉存候事。 〔岡田之式建議書〕