これより先米穀の不作相續き、その價亦騰貴せしかば、安政五年七月十一日には金澤の細民卯辰山に上りて、彼等が生活に堪へざることを絶叫し、十五日には石川郡鶴來・白山兩村の暴民、富豪の邸宅を破壞する等のことあり、藩の財政亦隨ひて困難なるものありしのみならず、更に六年十一月江戸城の炎上したるが爲に、十二月幕府より五萬兩の上納をさへ命ぜられしかば、萬延元年には安政四年以降諸士に課したる上納銀の期滿ちたりといへども、改めて明年(文久元)以後三ヶ年間に亙り同率の借上銀を賦課することゝせり。 文久二年六月四日齊泰又老臣に諭して臣僚の士氣を振作せしめき。曰く、當今天下の形勢は卿等の能く知る所なり。然るに士風の佳良ならざる、屢訓戒を加ふといへども多年の太平に狃れて毫も改むる所を知らず、益怠惰に流れ彌安逸に赴くのみ。この状態にして永續せば、それ國家を如何にせんや。宜しく弊風を一洗し士氣を淬勵し、一早緩急あらば機に臨み變に應ずるを誤らしむべからず。卿等宜しくこの意を體し、施設の法を議して以聞せよと。この年六月二十四日齊泰また老臣に命じて、銃兵の員數を増加することを議せしめき。かくの如く藩の内部に在りては努力する所甚だ尠からざりしも、斷乎として鎖攘を標榜せざりしは、所謂志士の輩より見て大に慊らずとせし所なるべく、江戸に於いては加賀藩を以て將軍と共に怯者の代表とするものあるに至りしこと、之を七月二十八日藩士永山平太の致せる上書によりて知るべし。是を以て齊泰は益發奮して國防の基礎を鞏固ならしめんと欲し、九月廿七日老臣に諭し、闔藩の人心一利を必要とする所以を示せり。曰く、方今の要務は海防を完備せしむるに在りて、その武器は洋式の銃炮を用ひ、我の短を捨て彼の長を採るに力を致さゞるべからざるが故に、人或は西洋の兵制に倣はざるべからずとの説を立つるものあるに至れり。然りといへども彼に在りて至當の制は、必ずしも悉く我に適するを保せず。况や戰勝を得るの要は、徒らに器用制度の末にのみ係らざるに於いてをや。之を以て現時他藩が採る所の方針果して如何を詳かにせずといへども、我に在りては本朝固有の勇武を本とし、祖宗の兵制を妙用し、且つ突然の異變に應ぜんが爲專ら力を人心の一致に盡くさんと欲す。苟も人心の統一を缺かば、爭でか堅を破り鋭を挫くの功を奏するを得んや。卿等この意を體し、衆心を收攬し、敵愾の氣を鼓舞し、勇武の技を練磨せしめ、一朝外寇の事起ることあるも皇國の耻を遺すの悔あらしむること勿れと。次いで十二月廿九日越中の伏木及び放生津に戍を置き、同月江戸の軍艦操練所に學生を派し、三年四月四日には能登の鳳至・珠洲二郡に海防の兵を屯せしめき。 一、世上に而當御家の士風を甚怯弱と見侮り居申候。其一端を奉申上候に、甲寅(安政元年)の春臣平太、江戸市中に而、弱き者盡し番附と申者賣行候を見申候處、東の大關は一行明て何も不書入有之、西の大關は本郷と調、其下は何も注記不仕有之。或人東之大關は何故明てあると問候へば、親玉々々と答申候。親玉とは幕府の事にて可有御座。西はと問候處百萬石と答申候。其節臣平太、餘り殘念之事に付右之者を可相果とも存候得共、能々思慮仕候得ば、是は賣行候者之罪には無之、追而板元を嚴敷吟味可仕と心付、御屋敷に歸り同組之者等え申入候處、何も申聞候は、板元吟味に罷越候とも、本郷と計り有之候得ば如何樣之言ぬけ有之も難計と申に付、先夫なりに容忍仕置申候。(前後略) 文久二年壬戌七月二十八日永山平太 〔舊金澤藩事蹟文書類纂〕