是より先安政五年の條約によりて我が國は諸外國と交易を開始するに至りしが、文久二年に至り朝議一變し、十一月勅使三篠實美を東下せしめて攘夷の決行を幕府に命じ給へり。將軍家茂乃ち命を奉じ、その手段に就いては之を明年將軍上洛の時まで保留し、一面諸侯に對して各その意見を言はしめき。齊泰乃ち三年正月廿一日を以て書を將軍に上る。その略に曰く、謹みて去年十二月示さるゝ所の勅書を奉じ、叡慮の攘夷に決したるを知り、神州腥羶の厄を拔くの大業實にこの一擧によりて成るを思ふ。是の時に當り、將軍命を諸侯に下して全勝の策を立てしめんとせり。然りといへども將軍既に勅旨を遵奉すれば、則ち海内一致の大本既に立てりと謂ふ可く、かくて全力を以て外寇を禦がば即ち勝算自らその中に在るにあらずや。思ふに開港以來夷狄連りに跋扈して國威揚らず、物價亦騰貴して民庶その害を被むること少からざるが故に、今や斷乎として通商を拒絶するの要ありといへども、先に之を許して又俄かに約を破らば、これ彼をして正義の師を起すの口實を得しむるものにして、拙策中の拙策とすべし。是を以て余以爲く、宜しく先づ誠意を披攊して彼に告ぐるに、通商の開始以來國力疲憊し下民心服せず、爲に已むを得ず鎖港せざるべからざるに至りし事情を以てすべく、而も彼にして尚通商を求めて止まざらば、則ち從來我が國の支那及び和蘭に對せしが如く、一に我が約束に從はしめ、貿易は之を長崎・箱舘二港に於いてのみ許すの意あることを表明すべし。但しかくの如きは單に我より信義を失はざることを示すの方便に過ぎざるを以て、彼は必ずこれに滿足することなく、大炮巨艦を以て我を威壓するに至るべきを豫期せざるべからず。是の時に當りて、全國の兵を率ゐて國威を振張するの擧に出づるは、則ち將軍の責なると共に亦余輩藩屏の任なり。故を以て今や將軍が勅旨を遵奉して神州一和の基礎を定むること、實に急務中の急務なるを信ずと。かく加賀藩の體度がペルリ來朝の當時に比して頗る硬化するに至りしは、朝廷の對外策が鎖攘に決したる影響によるなり。 今度勅書御寫等被仰下、謹而奉拜見候。攘夷之叡慮御決定被仰出、誠以皇國萬世之卸爲不過之御儀と難有奉存候。就而者策略之見込も候はゞ被聞召度旨蒙仰奉畏候。不肖之私至極重大之事件、見込と申程之儀も無御座恐入奉存候得共、何れ今般叡慮御遵奉被爲在候御儀者、海内一致之大本と奉存候。然上者皇國一和之全力を盡し防禦仕に於ては、勝算其内に有之儀と奉存候。先達而聊心附之趣申上候通、先年以來夷狄跋扈之所業、御國威に指響き候のみならず、通商の弊害年々指迫り候に付、斷然と御拒絶可被爲在候儀、至當之御所置と奉存候。乍併有拒絶之御所置においても、一旦通商御指許之上に候へば、唯今俄に御打拂と相成候而者、皇國之不信にも相當り、却而彼が侵凌之口實にも成可申候間、先通商以來本邦追々疲弊人心不服之状を有之儘に被仰諭、交易品能御斷に相成、其上に茂是非交易之望申立候はゞ、舊來清國・和蘭通商之如く本邦之規則嚴重爲相立、暫長崎・箱舘二箇所に而交易之儀被仰諭可然と奉存候。乍併此儀は先づ皇國之信義を御立被遊候儀に而、當今之夷情中々是等之儀承服は仕間敷と奉存候。此上若し皇國え對し不敬を働、軍艦をも指向候樣之儀有之候はゞ、其節に至り前段之御趣意通り速に御打拂可被遊儀と奉存候。海岸防禦方に於ては、諸藩銘々其國所により精誠策略を盡し可申儀と奉存候。將又禁裡御献納曁御守衞之儀は何分御手厚被仰付度、御貢献之儀者尤諸藩御割合等も被仰付候はゞ難有儀に奉存候。前段申上候通、何れ皇國中御一和被爲在候儀、外夷防禦之根本に御座候得者、いかにも際立候而尊上之御政道被爲在度御儀に奉存候。依而聊愚存之趣不顧憚奉申上候。以上。 正月廿一日(文久三年)松平加賀守(齊泰) 〔舊金澤藩事蹟文書類纂〕