商傑五兵衞の幼なりしとき、その家産尚甚だしく豐かならざりしによるか、又は庭訓の嚴なりしによるか、何れにしても自ら飴菓子を携へて近郷に行商せり。時に同郡粟ヶ崎村に木屋藤右衞門あり、世々豪富にして廻船を業とせしが、偶五兵衞を見てその才幹あるを愛し、仕へて家僕たらしめき。世に傳ふ、五兵衞の木屋に在りし時、主家に難ありて資産を藉せられしかば、五兵衞は窃かにその若干金を隱匿して資本に宛て、以て經營畫策する所あり。事止むの後に至りて、元本と利子とを併せて之を返へしゝに、藤右衞門は五兵衞の忠實なるを感じ、資金のみを納めて利益を彼に與へたりき。五兵衞之より大に主家の信任を博するに至れりと。葢し木屋がこの難に遭ひたるは天明六年にして五兵衞十四歳の時に當り、之と同時に彼はその生家に歸りたるが如く、翌七年父の隱棲によりて家を繼ぎ、而して木屋の罪を赦されたる寛政三年には十九歳となれるなり。されば五兵衞の木屋に在りし時、その地位尚僅かに丁稚に班し、未だ手代の列に加はることすら能はざりしならんも、彼が夙成の商才によりてこの種の冒險的行爲を敢へてせしこと、亦決してこれなかりしとは斷じ得べからざるなり。因に言ふ、木屋の文書に據れば、明和・安永の際既に苗字を木谷と記したるものなきにあらず。然れどもこは寧ろ非公式のものなりしと見え、木谷・木屋相混じて用ひられしが、その公然苗字を稱ふることを許されたるは天明四年六月にして、この時粟崎氏と定めたりしこともまた文書に確證あり。然るに六年粟崎藤右衞門は罪を得たるが故に、當然この殊遇を停止せられたるべきも、亦幾くもなく木谷氏を冐したること、寛政中の文書より散見し、爾後常に變ることなかりき。但し民間に於いては、多く屋號を稱したるを以て、本節には時の前後に拘らず凡べて木屋と稱することゝせり。